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不二孝、弁算和尚と尊徳先生

報徳記には桜町赴任後、二宮金次郎のやり方に反対し、妨害する岸右衛門、豊田正作(いずれも後に強力な支援者になるのであるが)などが印象的にかかれ、尊徳の考えを受け入れ、前向きに推し進める集団については書き込まれていない。
それを明らかにされたのが、鳩ヶ谷三志といわれる富士講(不二孝)のリーダーとその仲間達であったことを実証されたのが、岡田博氏である。

「二宮尊徳の政道論序説」(岡田博)121ページから要約

二宮尊徳と小谷三志との間柄について私に教えてくださったのは、当時日本大学助教授であった内山稔先生だった。
「二宮尊徳全集」刊行の過程で、二宮金次郎日記、桜町陣屋日記、金銀出入帳、書翰留等に、小谷三志とその門下の右行・加行・斗行・欽行等の不二孝行者の登場が注目された。
特に三志とその弟子の行者たちが、天保3年(1832)から4年にかけての二宮金次郎の「報徳哲学」あるいは「報徳経済学」の理論形成において、二宮先生の討論相手として参加しているのが知られた。

岡田氏は昭和51年6月22日鳩ヶ谷へ突然見えた内山先生から、小谷三志と尊徳との関係を教えられて、年表作りに取り掛かった。
文政6年(1823)1月から1ページ2ヶ月の欄を作って、気にかかる記事の記入を始めた。
その中で桜町3ヶ村の領内の「不二孝仲間」に出会った。

「二宮金次郎」の本名で書かれた「日記」と「金銀米銭出納帳」は、着任の3日後、文政6年(1823)4月1日から始まる。
その朝から回村記録が記入され、5日目の4月5日に

 一銭百文   下物井政吉倅
   是者畑片切(かたぎり)出精に附き遣す


と見える。この最初の表彰者の父親の下物井村政吉は後に「不二孝仲間」の一人として登場する。
その後、二宮先生の早朝回村の際の精農表彰の常連が現れるが、その多くが「不二孝仲間」だった。
「不二孝」の名が二宮先生の記録に初めて記録されるのは、仕法着手2年目、文政7年(1824)2月24日である。

 夕方物井村金兵衛案内にて水海道勘兵衛罷出、夜中不二孝之心願講致し、大雨大風に付勝俣氏方へ、金兵衛、勘兵衛両人泊り相成候事。
 御陣屋三軒、両長屋残らず罷出候事。 (「二宮尊徳全集」35-290ページ)

 水海道勘兵衛は、水海道に鍵屋・鍋屋・釜屋という3軒の豪商があったが、その鍵屋の当主で、姓は五木田、不二行者名を加藤三義といって、小谷三志の高弟の一人だった。
天保3年(1832)11月から始まった二宮尊徳の「第一次思想爆発」のとき、同じ水海道に住んでいた小谷三志門下中第一の学者である若林金吾を、桜町陣屋へ送り込んで、二宮先生の秘書がわりにしたのがこの人である。

 次の不二行者は、文政9年2月10日に登場する。

 下高田、下妻村兵右衛門、金兵衛三人罷出、色々話合仕候。 (「二宮尊徳全集」35-331ページ)

 「下高田」は、下館市下高田で、この村には小島繁右衛門と大山太助の不二孝仲間がいて、2人ともこの後桜町陣屋へときどき顔を出す。特に大山太助は、この3年間、文政6年の利根川下流の洪水被災地へ、上流の常陸・下野の不二孝同気が、翌年作付けの籾種を送った際の世話人で、井上村(茨城県真壁郡関城町井上)の右行・柴兵右衛門と一緒に活動しています。
 大山太助は、天保4年に桜町領に育った米穀商人、物井村峯高の豊田七郎治の病死後、二宮仕法が領外の大名領・旗本領へ伸展する際に、二宮先生の番頭的な役割をする。大山太助は、天賦10年に富田高慶が入門を願って来た際に、二宮先生が面会を拒否された後、お許しが出るまで自分の店で寺子屋を開かせて待たせた。 

「二宮尊徳の政道論序説」(岡田博)125ページより

二宮尊徳全集30-333に

文政10年(1827)3月15日
 夜峯右衛門不二孝聞に行、八百歳、定次郎、下拙、与七、繁二。

3月16日
 岸右衛門方夜に入り行、富士こう聞。

3月17日
 其日右行拙宅罷来り居候。

3月18日
 右行罷帰り、金兵衛送り申候。


岡田氏は、この3月15日の「峯右衛門」は「岸右衛門」の間違いである。
「これは『報徳記』を読んだ先生方が、反二宮、また悪玉岸右衛門の先入観をお持ちになっていて、文政10年3月という早い時機に、二宮先生が岸右衛門の家へ行くなど夢想だにされず、ましてや小谷三志が悪玉岸右衛門宅へ泊り、講話の会を聞くなどということは以ての外のことです。そこで『岸』と『峯』の草書体の類似から『峯右衛門』が生まれたのでしょう。」
とされる。

これはどうなのだろう、翌日3月16日の記事に「岸右衛門方夜に入り行、富士こう聞」とあるから、先入見から生まれたというのはいかがであろうか。単なる草書体の活字化にあたっての誤りではなかろうか?

確かに「報徳記」には不二孝についての記事はなく、反対派の岸右衛門の改心のくだりはとても印象深いくだりである。
「補注報徳記」には
「二宮先生の没せられた安政3年(1856)秋、・・・寺門静軒という江戸の文学者を招き記録せしめたが、漢文で簡潔に書かれて巧妙ではあっても熱のない文章であった。
 そこで衆議により高慶翁が日光西川の仕法に出張する機会に湯西川で筆を執って初稿を作成したと伝えている」(4ページ)とある。
つまり、尊徳先生が亡くなった後、「白湯を飲むようなそっけない尊徳先生の一代記」を読んだ高慶が一気に全巻を書き上げたとされるが、実はその時点でできていたものを整理統合したというのが本当ではなかろうか。
「報徳記」はおそらくは、富田高慶が尊徳先生が幕府登用時及び登用後の不遇期において、幕府の要職に尊徳先生の事業や人となりの素晴らしさを述べて、その事業を展開させるために繰り返し語った原稿を元にしているように思われる。
だからこそ、なんとしても幕府の要職の人々を説得しようという熱がこもっているのである。したがって、儒教思想にはぐくまれた高位の武士階級の耳に入りやすいように取捨選択され、当時の常識的な教養であった四書五教からの文章の引用や思想的な補強がされている。
反面、成田不動尊の断食修行等仏教体験についてもくどいほどの弁明がなされている。
したがって江戸の民衆信仰であった富士山信仰に基く教説や影響は自ずとその記述からは切り捨てられる定めであったのである。
「報徳記」は岡田氏の言われるとおり、「魂の書」であるが、実像二宮金次郎は、先生の遺言のとおり「我が日記を見よ、手紙を見よ」と言われるとおりの丹念な作業が必要であるのだなと思う。


「二宮尊徳とその弟子たち」(宇津木三郎)

岡田博氏は、小谷三志研究家として三志及び不二孝仲間の二宮尊徳への思想的影響及びその組織的協力を詳細に論じられた。

宇津木氏は不二孝仲間の活躍は評価しながらも、思想的な影響については否定的である。

「尊徳と鳩ヶ谷三志はこの時期、さらに親交を深めた。また桜町近郊の不二孝仲間は、桜町の陣屋に押しかけ、尊徳と世界観や社会の問題点などについて熱心に議論を交わした。
 尊徳は、そうした議論を活発に交わし始めた天保3年(1832)ころから、盛んに思想的なメモを日記や反古紙に記すようになる。
そこで、そうした 尊徳の変化に小谷三志や不二孝仲間からの影響を見ようとする人がいる。
 しかし、果たしてそれはどうか。
というのは、たしかに尊徳はこの時期、思想表現に不二孝仲間の言葉遣いを用いることが多いけれど、両者の考え方はまるで違うのだ。


不二孝の実践の目的は何か。
それはこの世の中に、豊穣と和合の「みろくの御世」を実現することにある。
その前提の世界の組み替え、「世のたてなおし」は既になされ、あとはそれを迎える「人のたてかえ」があればよいという。
「人のたてかえ」とは、人間が心持ちを改め、「真の人」になることである。
ところが、世の人は、未だに心持ちを改めずに、奢侈や色欲にふけっている。
これを改め、家業に励み、夫婦和合し、世の人々の和合を実現しなければならない。
その実践を通じて「みろくの世」をもたらす浅間大菩薩に報恩感謝すれば、すぐに豊穣・和合の世界が実現するという。
・・・
 桜町の不二孝仲間が、一般の村人の嫌う農作業に励んだのも、この信仰による。
不二孝では、社会の仕組みが本来的には民衆のためにあるという信念を持ち、これを自分達で実現するという目標を持っている。
それをさらに確信するために、土木普請工事など集団的な実線活動も展開する。
この意味で不二孝は、人々が同じ目的のもとに連帯し、行動するという志向とバネを持つに至っている。
 不二孝は、実践が新しい世界を招来するという点において、尊徳の教えと共通の基盤を持った。
しかしその方法論は元から違っている。
不二孝仲間にとって現実の世界は、人々が「真のひと」になるという条件付きながら、本来的には今ある姿そのままで、人々の生活を守ってくれる、有難い存在である。
だから、そもそも現状の社会制度を変革しようという視点がない。
また、不二孝では、人々が「真のひと」になりさえすれば、理想の世界が一挙にやってくると考える。
だから現実に対する長期的計画の取り組みがない。
一つ一つの実践は社会的にも評判になり、それはそれとして意義が多いが、それはいわば1回限りのもので、その積み重ねが新しい状況を生み出すというステップがない。
 ここが尊徳と不二孝仲間の考えが違うところだ。
尊徳の場合は、一つの実践が次の実践のステップになり、その幅の広がりに伴って、より高いレベルのものに成長する。
そこには社会を変革する長期的な計画がある。
不二孝のように理想の社会は一挙にはやってこない。
ほおっておいては危険な社会状況への働きかけで積み重ねる。
継続することがもっとも大事なのだ。
さらにそこには、常に客観的な状況を見つめ、事業計画への反対や妨害を事前に予測する尊徳の冷徹なまなざしがある。
その実践のなかで、仕法事業を主体的に担うグループの育成と、社会に受け入れられる客観的な制度を構築していくことが、尊徳にとっての道なのである。」
 (同書52ページ)

☆不二孝の思想との対話は、尊徳先生の思想を醸成する基盤になったが、先生の思想は「天地の経文」そのものである。その砥石に儒教でも仏教でも神道でも磨いでみて、自然の法則にあったものだけを受容された。不二孝の思想についてもそうである。儒教の言葉を借りて自らの思想をのべたように、「元の父母」など不二孝の言葉を使って、不二孝仲間に平易に理解させるための方便とされたが、あくまでも不二孝の思想の影響を受けたということはないというべきものかもしれない。
したがって、むしろ不二孝の思想的表出については矛盾を指摘されて、自らの見解を夜話などで披露されたことが多い。

二宮翁夜話【32】尊徳先生はおっしゃった。
「聖人も聖人になろうとして、聖人になったわけではない。
日々夜々天理に随って人の道を尽して行うのを、他人が称して聖人といったのである。
堯・舜(ぎょう・しゅん:古代中国の聖王)も一心不乱に、親につかえ、人を憐んで、国のためにつくしただけである。
それを他の人がその徳を讃えて聖人といったのである。
諺(ことわざ)に、聖人聖人というのは誰の事かと思ったら、おらが隣の家の丘(孔子の名前)が事か、ということがある。
本当にそういう事なのだ。
私が昔、鳩ヶ谷の宿場町を通った時、同町で不士講(ふじこう)で有名な三志という者を尋ねていったが、三志といっても誰も知る者がない。
よくよく問い尋ねてみれば、それは横町の手習師匠の庄兵衛が事であろう、といわれた事があった。
これと同じことだ。」

ここには、例えば小谷三志を師として崇めるような口ぶりはなく、たんたんと事実を述べられているだけである。

報徳教示略聞記(「尊徳門人聞書集」115ページ)

随身の者ども問う
 元禄年中陰陽振りかわりし説、三志老の示すはいかん。
答う、三志は水の下流を生と見、火の登るを生と見しゆえ、陰陽振りかわりし言出せし説ならんか。
 それ山上に水有り。また麓に水有り。
考えるに水土有る中、高山へ登る、これ則ち生水なり。
土中を離れ出れば低きに下りたる、これ死水なり。
ゆえに水の下るは古里へ帰るなり。
譬えば草木の枝葉なにほど上下へ曲がり候ても水気根より上がる。これ水の生気なり。
また木を離るれば水下へ下へと流る。これ死水の古里へ帰るなり。
日則ち火なり。
空中に存す時、生火なり。形あらわす時死火なり。
火、草木生育の火は生なり。真木に焼く火、死火なり。
人の血、生中は体中上下する。
頭上にてもキズ付け外へあらわる。下へ流る、死なり。
ゆえに水の下るは本国へ帰るなり。
火先上へ登るは本国にへ帰るなり。
人の老いまた死するも本国へ帰るなり。
ゆえに万物生じては枯れ、死しては生き、また生まれては死ぬ。止まる物無し。
これ不生不滅の世界なり。
天に火空中有り、万物照らし恵んで生育す。これ生火なり。
焼く火焼く木の火は上へ火先立つは死火なり。味あうべきものなり。


二宮翁夜話巻の2

【29】尊徳先生が弁算和尚に問うておっしゃった。
「仏が一代の説法は無量である。
しかしながら、区々の意があるわけではなかろう。
もし一切の経蔵に一言で題する時はどう言えばよいか。」
弁算和尚は答えて言った。
経典に「諸悪莫作衆善奉行という。この二句をもって、万巻の一切経を覆うことができよう。」

尊徳先生はおっしゃった。
「そのとおりだ。」

二宮翁夜話残篇

【47】尊徳先生は日光ご神領の興復法の取調帳数十巻を指差しておっしゃった。
この興復仕法計算は、ひとり日光だけではなく、国家興復の計算である。
日光神領という文字は本当に素晴らしい。
この言葉は世界の事と見てもよい。
そうであればこの帳簿は計算帳と見てはならない。
これは皆一々悟りの道であり、天地自然の理である。
天地は昼夜に変じたり満ちたりして違うことがなく、偽りもない。
そして算術もまた同じである。
だから算術をかりて、世界が変じたり満ちたりするのはこのとおりの道理であるから決して油断できないと示していましめたものである。
この帳面を開くときは神の一を何であろうとも定めてみるがよい。
善でも、悪でも、邪でも、正でも、直でも、曲でも、何であろうとも定めて置いて見る時には、元によつて利を生み、利が返ってまた元となり、その元に利が付いて繰返し繰返し仏説にいう因果因果と引き続いて絶えない事、年々歳々このとおりである。
たとえば毎朝、自分が先に眼覚めて人を起こすか、また人に毎朝起されるか、この一事でも知ることができる。
人の世は一刻勤めれば一刻だけ、ひととき働けばひとときだけ、半日励むならば半日だけ、善悪邪正曲直皆この計算のとおり、1厘違えば1厘だけ、5厘違えば5厘だけ、多ければ多いだけ、少なければ少ないだけ、このとおりと皆180年間明細に調べ上げたものである。
朝早く起きた因縁によって麦が多く取れて、麦が取れた因縁によって田を多く作り、田を多く作った因縁によって実が多く取れて、麦が取れた因縁によって田を多く作り、田を多く作った因縁によって馬を買い、馬を買い求めた因縁によって田畑がよくできて、田畑がよくできた因縁によって田がふえ、田がふえた因縁によって金を貸し、金を貸した因縁によりて利が取れる。
年々このようになっているによって富裕者となるのである。
 そして富裕者が貧困になってゆくもまたこの道理である。
原野の草、山林の木の生長もまた同じ理なり、
春に延びた力によって秋に根を張り、秋に根を張った力をもって、春に延び、去年延びた力をもって今年太り、今年太った力をもって来年もまた太るのである。
天地間の万物は皆このとおりである
これを理論で言う時には、種々の異論があって面倒であるから、私は算術をかりて示したのである。
算術で示す時には、どのような悟道者でも、どのような論者でも一言も言うことができない。
天地が開けた昔、人も動物もまだ無い時から、違いがないこともって証拠として、天地間の道理はこのとおりの物であると、知らしめたのである。
決してこの帳面を計算と見てはならない。
数はごまかすことができない。
この数理によって道理を悟るがよい。
これが悟道への近道である。
弁算和尚がかたわらにあって次のように言った。
これぞ本当の一切経である。仰ぐがよい尊ぶがよい。


留岡幸助日記
「弁算和尚は水野越前の非常に信用し、この和尚はまた二宮翁を推尊せしなり。
江戸に先生のありし時、しばしば先生を訪いて常に安否を聞けり。
奥座敷に通らずして、先生の安否を門口より聞きて、変わりなしといえばそれで帰りたりといえり。
これは富田高慶の語りしことなり。」

弁算は現在の小田原市中里で生まれた、つまり尊徳先生と同郷である。
ここに真言宗満福寺があり、そこに弁算の石碑があるという。
それによると
「弁算尊師は、字(あざな)は恵運、姓は剣持。
当村出身で満福寺9代の広弁あじゃりによって得度した。
年11歳で高野山の浄応師について学び、功を成して名をあげて高野山を退いた。
その後万国を遊歴した。
年68歳で江戸の老中水野の宅で法命を終えた。」

弁算は全国を遊歴し、定住の寺を持たなかった。
弁算は高野山で浄応和尚のもとで学び、浄応和尚逝去のとき千蔵院の後事を託された。
あわせて慈眼院の住職も兼ねた。ところがその2年後に弁算は高野山を脱出する。
千蔵院を継いだ戒弁の「寺歴書」にこんなふうな記載があるという。
「文化の終わりに弁算という者があって、気宇は卓絶し、胸に堂々の風をつつんで当世に名をとどろかせた。
真言宗の奥義に通じ、祖師空海にならってひそかに海を渡ることを考えていた。
その度外れた度量に多くの英才が集まり、他院は嫉妬した、惜しいかな」
弁算この時、52歳であった。郷里に帰る途中、法衣を乞食の衣類と交換したという逸話が残る。その後全国を遊歴したが、佐々井氏によると横浜市金沢区、埼玉県大里村などに遺跡ないし逸話が残るだけだという。
弘化元年(1844)3月9日、尊徳先生が江戸の宇津家の屋敷にいた頃、
「昼ごろ、弁算和尚まかりいで、7ツ時過ぎ(17時)まで話し込んだ」とあり、
7月29日尊徳先生が芝の海津伝兵衛別宅にいた頃
「弁算和尚、7ツ時まかりいで、種々話しあい」とある。
弁算和尚はふいと現れては長い時間尊徳先生と話しこまれ、先生も和尚との対話を楽しみにされていた。肝胆相照らす仲であった。

☆「弁算、郷にあり、徳を修め衆を愛す。
遠近その徳に服す。
竹松村の民幸内・新田村の民小八等、師として事(つか)う。
ある日弁算、小八の家に至り宿す。
翌朝主を呼び、食を命ず。
主、その早きを怪しみ問う。
弁算答えていわく、
「幸内の家、疾病あり。
既に我を迎えり。
故に使いいまだ来らざるに我行かんと欲す。」
小八ますます怪しみていはく、
「貴僧、恐らくは夢幻に出でんや。幸内の家、疾病あるを聞かず。」
いわく、
「昨夜病める者あり。使い、既に出でたり。今まさに来たらんとす。汝、我に食せよ。」
小八なお進ぜずといえども、命によって食を奉ず。
食すでに終わり、たちまちに戸をたたく者あり。
「幸内の家、疾める者あり。弁算釈氏の迎えとして来る。」と。
弁算、直ちに幸内の家に至る。
後、幸内怪しんで祖父(尊徳)に問う。
祖父いわく、
これ、知るべきの理なしといえども、弁算の地位に立つことを得ば、おのずから通覧するところあるべし。」という。

☆満福寺の「前慈眼大阿遮梨(だいあじゃり)弁算上綱塚」の脇に新しい石板が立っていた。
この弁算上綱塚の由来を説明したものである。

DSCF1556.JPG

「傑僧弁算和尚は、安永6年(1777年)中里剣持氏の6代の茂右衛門の子として生まれた。
生まれながらにして性英敏廉潔才徳を兼ね備わるという。
幼くして当満福寺に入寺し広弁尊師、字(あざな)は恵運、姓は剣持、当村の産にして、当時9代広弁阿闍梨に随って髪を剃り得度す。
天保8年(1778年)11才のときに紀州高野山に上り隣村下堀出身の浄応大阿闍梨の弟子となり、功を成し名を磨いて慈眼院、千蔵院、高室院の住職となる。
その名声すこぶる高く上人の間は英才が集まり他院の門前は閑古鳥が鳴いたと伝えられている。
その間高野山高位の上綱に補されている。
文政12年(1829)正月高野山を辞し、諸国行脚の旅に出て仏教の本体を極めるべく修行と布教に邁進したと云う。
又弁算上人は老中水野越前の守忠邦、二宮尊徳等とも深い親交があり、それらは諸書により明らかであり、上人は弘化2年(1845)5月23日であり、68才を一期に水野家にて法命を終えたのである。
葬儀は水野家の屋敷にて立派にとり行われたと云い、埼玉県妻沼の名刹歓喜院の立派な宝篋印塔の傍らに今も手厚く葬られている。
尚横浜の宝樹院、鎌倉の明王院にも上人の遺徳を称え供養塔が建立されている。
また上人が住職をした高野山慈眼院は昭和25年高崎に移転され「高崎観音」として知られている。
《農ぎょうはすぐにあぼぎゃのまかぼだらまにはんどま鍬かまとしれ》弁算
 平成9年12月吉日  当山小弟、謹書


☆そうなんだ、高崎観音は弁算上人が住職をした高野山の慈眼寺に由来するのか。
今度行ってみようと思った。
それにしても弁算上人が高野山を下って姿をくらませた文政12年(1829)正月は
実の二宮尊徳先生が姿を消した年とぴったり一致する。正月から3ヶ月行方が知れなくなったのである。
年譜によるとこうだ。

文政12年<43歳>
 1月 先生江戸に出て、桜町陣屋に帰る途中に行方不明となる。
 2月18日 横山周平再任
 3月 先生成田山に参篭祈願
 4月8日 祈願満了、桜町に帰任


このことから佐々井典比古氏は尊徳先生が故郷の墓参のときに弁算上人とこの時会ったのではないかと推測されている。
何かしら尊徳先生とこの弁算和尚はソウルメイト(魂の友)といった趣きがある。

石板にある最後の歌は弁算和尚が民に教えた光明真言【おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まにはんどま じんばら はらばりたや うん】による。

☆佐々井典比古氏の著作「尊徳の森」に「尊親筆記の弁算逸話」があり、その中で二宮尊親氏が記された「釈氏弁山小伝」を紹介されている。

弁算上人については、小田原市中里の満福寺の碑を紹介したところだが、この稀世の僧の資料が散逸しているなかでその人となりがわかる貴重な資料である。

某寺の僧、弁算なる者あり。
弁算はその称にして、相州足柄下郡中里村、某農家(剣持茂右衛門家)に生まる。
その人となり、性英敏廉潔、才徳兼ね備わり、然りしかして書をたしなみ、すこぶる古今に通ず。
幼にして髪を剃り僧となり、日夜汲々(きゅうきゅう)その道を学び、大いに覚るところあるがごとし。
既にして高野山に登り、某寺(慈眼院、千蔵院、高室院)の住職となり、ますますその蘊奥(うんのう)を究め、遠近その徳を頌し稀世の名僧となす。

時に山僧相議し、弁算をして高位に就かしめんとす。
弁算ひそかにこれを聞き、その辞すべからざるを知り、飄然(ひょうぜん)寺を出て、秋毫(しゅうごう)も顧慮するところあらずして故国に帰る。
のち某侯(水野忠邦)、弁算を聘(へい)し師として事(つか)え、ついに60余歳にして没す。
弁算、幼より老に至るまで、奇行珍談その数知るべからず。
今その一、ニを挙げん。

始め高野山を出ずるや、時まさに厳寒なりといえども、徒足、山を下り郷里へ帰る。
沿途、役夫、斧鉞(ふえつ)・らいし(鋤鍬)を携え橋梁を架すあり。
弁算これを見、足をとどめ、役夫にいっていわく、
汝ら、この厳冬をも厭わずして衆生のために橋梁を架す。
何ぞそれ奇特なるや。
いま汝らこの橋を架せざれば、幾百人の旅人、皆この川を渉(かちわた)らざるを得ず。
いま厳冬に向かい水中に入る、誰か快しとする者あらん。
しかるに汝らのために幾百人、安然として渡ることを得。
ああ、何ぞ奇特のことにあらずや。
いささかその労を謝す。汝ら酒に換えて飲せよ。
」 
と懐中より百金を出して役夫に投じ、飄然行きて顧みず。
役夫ら大いに驚き、なすところを知らずという。

やや東国に赴く。
路傍、食を乞う者あり。・・・
弊衣肌をおおうに足らず、飢寒身に迫り、ほとんど死に至らんとす。
弁算・・・号哭(ごうこく)していわく、
「汝、五尺の人となり・・・
生計をなすあたわずして、事ここに至らんとす。
我、・・・さきに役夫に与えていま一金をも余さず。・・・
それ、これを服せよ。」
と、衣を脱ぎ、裸体にして去る。
食を乞う者大いに驚き、呼びて弊衣を換えんとす。
弁算受けてしかして去り、ようやくにして郷里に帰る。
郷里の男女、これを見て驚嘆せざるものなし。

弁算、郷里にあり、徳を修め衆を愛す。・・・
遠近その徳に服す。
竹松村の民幸内・新田村の民小八等、師として事(つか)う。
ある日弁算、小八の家に至り宿す。
翌朝主を呼び、食を命ず。
主、その早きを怪しみ問う。
弁算答えていわく、
「幸内の家、疾病あり。
既に我を迎えり。
故に使いいまだ来らざるに我行かんと欲す。」
小八ますます怪しみていはく、
「貴僧、恐らくは夢幻に出でんや。幸内の家、疾病あるを聞かず。」
いわく、
「昨夜病める者あり。使い、既に出でたり。今まさに来たらんとす。汝、我に食せよ。」
小八なお進ぜずといえども、命によって食を奉ず。
食すでに終わり、たちまちに戸をたたく者あり。
「幸内の家、疾める者あり。弁算釈氏の迎えとして来る。」と。
弁算、直ちに幸内の家に至る。
後、幸内怪しんで祖父(尊徳)に問う。
祖父いわく、
「これ、知るべきの理なしといえども、弁算の地位に立つことを得ば、おのずから通覧するところあるべし。」という。

一日、弁算来りいわく、
「先生(二宮尊徳)つつがなきや。」
(富田高慶)いわく、
「然り。」
いわく、
「先生在(いま)さるるや。」
いわく、
「某侯の邸に行けり、
我、行きて告げ来らん。
請う、しばらく休せよ。」
という。
弁算諾して、直ちに横たわり、肘を枕にして寝る。
某(富田高慶)行きてこれを告ぐ。
祖父(二宮尊徳)いわく、
「久闊(きゅうかつ:旧友)弁算来れり。
我、速やかに行かん。」
直ちに辞し、疾徒して帰り、戸を開けば、弁算、戸内に横たわり凝然天を仰いでいわく、
「先生つつがなし。野僧の大慶これに過ぎず。」と。
祖父、延(ひ)いて、まず起って室に入る。
弁算、室に入ることを欲せず。
某をしてなお迎うれども起たず。
いわく、
事すでに卒(お)えたり。
また何をか言わん。
野僧もとより言うことあるにあらず、また聞くことあるにあらず。
ただ先生の安否を問うのみ。
野僧すでに先生の壮強なるをうかがえり。
他に求むることなし。

先生、幼より経済(経世済民)に力を尽くし、寸陰の間も撫恤(ぶじゅつ)の道に汲々、日もなお足らず。
しかるに野僧、先生の前に出て聖賢君子の大道を聞くといえども、愚僧賎劣、あに一端をも行い得るあたわず。
また先生に向かって喋々陳言すといえども、何ぞ先生を益することを得ん。
ただに益なきのみにあらず。
先生をして貴重の光陰を空しうせしむるに至る。
野僧もとより先生の妨げをなすことを欲せざるなり。
」 
といって自若たり。

某これを祖父に告ぐ。
祖父いわく、
「弁算和尚久しく来たらず。
今来り、事すでに卒えたり、起つことをば欲せずと。
我、行かん。」
と。
すなわち弁算の枕上に坐す。
弁算なお横たわり、いわく、
野僧久しく拝顔を怠り、動止つまびらかならず。
いま先生の壮健なるをうかがい、事すでに卒えたり。他に用事なし。

」 という。
ここにおいて、祖父、起って退く。


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