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跡を継ぐもの&「熱と誠」&佐々井

安居院庄七


「熱と誠」畠山一誠(荏原ポンプ創設者)著

私に大きな影響を与えたのは、鈴木藤三郎氏の信奉する報徳精神だった。

悲運に終わった恩人・鈴木藤三郎

相次ぐ事故で挫折

私のバックボーンは実に鈴木藤三郎さんの報徳精神によることと、また経営者として、人の和がいかに大切かということを知っていただきたかったのである

佐々井信太郎小伝 その1


「佐々井信太郎小伝」304-312頁 二宮四郎「追憶ー二宮家と佐々井先生ー」抜粋

  二宮尊徳全集の刊行と二宮尊徳偉業宣揚会

 日光仕法は、明治維新によって実施不能になりました。その時は尊徳逝いて後継者の尊行の時代となっていたのですが、相馬侯の招聘により、相馬藩中村に家族全体を引き揚げることになり、今市文庫に保管してあった書類約36箱(全集原本)を、馬の背によって運搬されて、相馬家の板倉に移管されたのでした。
その後明治末期に、鈴木藤三郎氏の厚意により、写本を作って火災その他の災禍から安全保管することになり、約20人の書記を頼み、3か年の年月を要して完成し、今市報徳二宮神社の境内に石造の書庫を建設して保管されたのでした。その全費用は鈴木氏の寄附金によったものです。従って原複2通により安全保管すると同時に、今市文庫においては一般に公開し、研究の便に供することになったのでした。
たまたま報徳普及と研究者の便宜を図ることの必要性が高まりつつあるのに鑑み、観光する計画が持ち上がり、関係各方面の方々の熟考の上具体化し、当初は副本によることであったのでしたが、研究の結果むしろ原本そのまま印刷するほうが確実性が優先するということで、二宮家の諒承を得て、刊行方針が決定されたのでした。
そこで二宮尊徳偉業宣揚会を組織して刊行主体とし、昭和2年に発足したのでした。その組織は二宮家から二宮徳、編集者として井口丑二氏と佐々井信太郎氏とし、経済界並びに運営の援助者として平凡社社長下中弥三郎氏が加わり、参与団体として中央報徳会、大日本報徳社ほか、個人援助者も含めて成立しました。事務局は中央報徳会内に置き、職員として中央報徳会幹事上野他七郎氏、それに二宮徳は公務多忙で実質的に参画が困難のため、弟二宮四郎が従事することになったのでした。関係者の打合せ等の会合場所は平凡社の事務所でした。当時平凡社は発足して間もない頃で、神田区小川町にある二階建の仕舞屋(しもたや)で、『西郷隆盛全集』が大好成績で終了し、『大衆文学全集』の出版が開始された間もない時で、非常に多忙を極め、積極的の協力は容易でなかったようでした。しかし、ほぼ具体案が成立したので、印刷は浜松の開明堂が一手に引き受けることになり、原本の受入れとなったのでした。
当時原本は福島県相馬郡中村町三の丸所在の相馬侯の板倉に、相馬家の保管管理の下にあったのでした。そこで原本の搬出と保管の段取りになり、搬出には二宮四郎と開明堂役員とが当たることになり、現地に同行して、実質保管者の相馬家に至り、出版のため返還方の諒承を得て、開明堂が貨車輸送しました。保管場所は、諸般の事情を考慮し、当時幸いに完成したばかりの大日本報徳社の図書館が適当と認め、あらかじめ諒承を得ておったので、直送して無事に収容出来たのでした。
こうしていよいよ印刷に取りかかるのですが、一巻を三段組組約千三百頁で、門人集を加えて、全三十六巻とし、発行部数は限定五百部を予定し、価格は一巻十円、全巻三百六十円と決めたのでした。当時円本と称して一円本全集が多い中で最高価部類であったのでした。
印刷には最も新しい活字の9ポイントを使用することになって、新しく鋳造した真剣さでした。
背文字は二宮徳が書くことになったのでした(徳の急死後は、各巻の内容表示の部分を私(二宮四郎)が代筆しました。)第一回配本の日記上巻が仕上がり、なかなか見事の出来上がりで配布完了したところ、その頃編集者の井口丑二氏が病臥の身となり、間もなく急逝されました。早速上野氏と私が岐阜県蛭川村に出張会葬しました。井口氏は「神国教」の教祖として尊敬され、同教による葬儀でした。
それからの佐々井先生のご活躍とお骨折りはなんと申してよいやら、原本保管の掛川、印刷所の浜松、そして打合せの東京、全く西走東奔、往復の車中も原稿作成の場となり、寝食も忘れられ寸暇もないご様子でした。
第二回配本予定の仕法雛形は、幕府に進献するために起草されたので、仕法書中特に美麗でありますから、その俤(おもかげ)を残そうとして、全部これをオフセット版としました。その印刷所は東京浜松町にある単式写真印刷所で、監督は私が当たったのでした。
ちなみに、従来尊徳の遺書は反故紙の裏を使用したものばかりで、又なかなか見当たらないとされておった関係上、この大部の書類の中に、真筆でしかも「報徳」という文字がないものかと、興味津々で捜し求められ、ついに発見されて非常に喜ばれたご様子でした。後に拡大印刷されて額形とし、全巻購読者に配布されたものでした。
予定発行部数に対し申込部数は三百五十部で、全く前途不安な様相もあったのでしたが、開明堂との協議の結果、印刷は五百部とし、百五十部は未製本のまま保存することになったのでした。佐々井先生が編集を進められるにつれ、疑問の点などについては二宮徳所蔵の文書によって補給解決されたこともあり、二宮徳との接渉等、親しまれた場合もあったようでした。
刊行には種々の悪条件が重なりました。最初に井口氏の逝去があり、平凡社は大衆文学全集に忙しく、下中社長は実質的に協力薄となり、そこに二宮徳の急逝によって、佐々井先生のご負担はますます重かつ大となり、原本が掛川にある関係上、あるいは印刷所届出の事情から、大日本報徳社内に事務所を置くことが便利と思考の上、事務局を移行し、そのころ上野他七郎氏も病弱のため、主体は掛川となったのでした。
種々苦難の末、三十六巻全部を完了されたのは昭和七年で、特に残本については先生の私財を投げ打ってまで整理されました。正に身命をかけられた大事業と言うべく、報徳界における後世への遺産と言うべきものと信じてやまないものであります。他事ながら刊行終了後の原本は、佐々井先生のご厚意により、全巻製本されて二宮家に返還されたのですが、都合で大倉山図書館(国会図書館分室)に保管され、現在では国会図書館に預かり保管されております。なお二宮尊徳偉業宣揚会は、佐々井先生ご逝去後は当然佐々井典比古先生が継承されるべきはずのところ、ご都合で現在二宮四郎が代表者となっております。
なお、佐々井先生の全集刊行のご所感、あるいは編集の態度、並びに報徳同志に対する心構え等が如実に表現された一節を添加させて頂くことに致しました。

二宮尊徳全集刊行彙報(いほう)(一七)抜粋
  一、 本全集編集の方針と仕法書の性質
 本全集の編集は、他の円本等とは異なり、二宮翁一人の全集であって、本居宣長全集、中江藤樹全集等とその趣旨を同じくするものであるから、翁が取り纏められたものは、一行一句といえども省略すべからざるを本則とする。
しかし一般に著作といえば、前後左右同文のものの無いのが通例である。しかるに二宮全集に限り、同じ法則、同じ様式を数百町村に用いて有効であったのであるから、本集中には全く同一の文章字句の出る場合が甚だ多い。よって編者はその旨を注記してこれを省略したものが少なくない。
 けれども報徳の道は実行にある。我々は眼より耳より、何程報徳の教を知りたればとて、これを知識として有するのみでは報徳の道に入ったことにはならぬ。その理由よりして、本全集は全部実行の記録である。報徳の本旨の体験録である。
体験は個々の場合に於て相違する。時代の相違、場所の相違、実行に当たった人々の相違、その他天地間の事物と時代のあらゆる相違が、報徳仕法の上に表現することとなる。
かく種々の事情を以て相違した仕法事実は、一つの規範、一つの様式を知りたればとて、容易に実行の出来るものではない。
 故に本全集三十六巻は、原理一巻、仕法規範即ち雛形一巻、日記・書翰合わせて約八巻を除けば、その他は仕法書である。もっともその内一巻あるいは二巻を仕法上の金銭出納帳とし、一巻は門人中高弟の著述を輯(おさ)めたいと考えているが、それにしても二数巻は仕法書である。

  二、普通の著書と仕法書
 普通の著書は読み物である。人に読ましむるように出来ている。体験書は読むものではない。これを読んで面白いのは体験者自身が最も面白いことと思う。また翁からいえば、これを後世において印刷して頒(わか)つようになったなどということは、意外中の大意外であろうと思う。それ程に人に読まれるものではない。
 しかし、もし世人に先立って憂い、世人に後れて楽しむところの志士があって、現代の世相を考え、国としては六十億の債務があり、府県市町村においても二十億円の債務を負い、住民の借財としては何十億円になるか分からぬ。村として借金あらざるなく、家として生活の憂いのなきもの甚だ少ない。この事情を洞察し、特に労働問題、小作問題、政党によって自治体を攪乱せられつつある問題等に思いを致す時、何とかして救済の道なきやを日夜焦慮するであろう。その時にあたり、いかなる解決方法ありやということを第一の要件とするであろう。
 現下の問題を解決する諸案については、幾多の明案卓説が大なる標榜の下に公にせられてある。普通図書とはそれである。
 しかるにこの普通図書の公にせられて数年・数十年なるも、その一巻によって解決せられた事は実に甚だ稀である。それはその筈である。普通図書は、机上の概念論である。それは普通人の気づかれない程度の欠陥ある論理的著述である。大体において理詰めの書類である。故に著者ご本人も何ら実行したことのない無権威のものである。人にやらして見ようという銘論である。
 これに反して本全集は、いずれも実行の跡である。実績の記録である。その遂行の困難より障害に至るまで、掩うところなく隠すところなく、露骨に、正直に述べた事業録である。故にこれによって行えば何人といえども廃村を興し、借財を返し、生活を安定し、一村一地方を平和となし得る。編者はこれを全国に普及せしめて、一国の平和と幸福を増進すべく、現下の志士の実行を冀(こうねが)うものである。
 
  三、数字の羅列と類似書類の多きについて
 本全書の特色は、人類の日常生活としての経済事情に偏したる傾きがあり、経済事情は数字によって表れ、数字は何反何畝歩、何石何斗何升、何両何分何朱銭何百文お大部分とする。
本全集をちょっと開いて見た人は、どこにもここにも、この無趣味の数字に驚かれることであろう。甚だしきは、一二の例を挙げれば足りると考えられるかも知れない。若しくは規範とか、雛形とかいうもの一つあれば、十分であるという心持ちがするかも知れない。それは普通図書から来る観念であって、実行を主とする教には、雛形のみでは容易でない。たとえば現在一人の志士があって、本全集第二巻仕法雛形を手にして、どこかの貧村に至り、直ちにこれを実行しようとしても、到底どこまでも手の出るものではない。それを規範として行なった実例を見れば、雛形がいかに活躍しているかが判然として諒解する。

  四、実行と読書との相違
 実行は容易でないから、練習と研究とを要する。富田高慶氏の如きすら、いよいよ相馬に実行する場合には実に戦々兢々(きょうきょう)たるものであって、しばしば翁の許へ指導を仰いでいる。翁の許にある七年にして、実地発業にあたればその通りである。故に編者は、実際の数字を羅列し、方法を詳述した書類が更に多くあっても然るべきであると思うのである。譬えば、小田原、日光等の分にはこの数字が多く報告書になっているので、誠によい実地指導書である。
 始めて本全集について学ばれる学徒の為には、この数字は誠に迷惑である。これを根源として新たに編集した読み本が必要である。しかしそれは一般の著作となりおわるので、尊い二宮大先生の垂迹ではなくなる。



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