12344298 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

GAIA

GAIA

思考が人生を創る(神渡先生講演録)

思考が人生を創る(神渡良平講演録より)

広島県に半野さんというテレビのディレクターの方がいます。
この方は去年脳梗塞で倒れ、視床下部で出血し、医者からもう助からないと言われた。
奥様は四人の子供を抱えて何とか助けてください、
この峠を越えさせてくださいと一所懸命祈られ、その甲斐あって彼は命を取りとめた。
ところが、右半身麻痺が残った。
意識障害も出て、誰が訪ねて来たかも判らない。
見舞いに来た人達が「半野さん、僕が誰かわかる?」と言われても判らない。
意識が混濁して、どうにもならない。
当然会社は解雇され、そして失業。
そういう闘病生活が始まると月に何十万円と病院代がかかる。
そういう頃、私の講演を聞きにこられた一人の方が、その半野さんの友達だったんです。

「私の友達が脳梗塞で倒れ、今寝たきりになっている、生きる気力を失って、しょげかえっています。
「死にたい、死にたい」で、病院の方も警戒して自殺もできないような形になっていて、
そういう友達がいるんですが、なんとか励ましてください」
と言われ、私は講演が終った後、彼にビデオレターを送った。
私も同じような病気で、寝たきりになってたんで、他人事と思えなかったのです。

『半野さん、大変ショックだったでしょう、動けなくなって、寝たきりになって、
これからどうやって生活していったらいいのか、あなたも悩まれたでしょう、僕もそうでした。
でもね、半野さん、そういうショックがないと人間、気が付かないんですよ。
順風満帆に事が進んでいる時というのは、なかなか振り返りはしないし、
仕事が終って家に帰れば、後はテレビのスイッチを入れてプロ野球を見て、
松井が何号打ったと言って喜んでいれば良いわけだけれども。
そういう二進も三進もいかないショッキングな事があると、真剣になります。
初めてこのままじゃいけないという気持ちになる。
そういう意味で今度の事は良かったんじゃないですか」
そう呼びかけた。
僕の場合社会復帰できた。僕の場合、当然治ると思った。
でも、今三次元の世界に住んでいるから、目標に到達するまでには時間と空間が必要だ。
だから、歩けるようになり、字が書けるようになるという目標が実現される迄は時間がかかる。
その時間を短縮するためリハビリをやってると僕は思った。
毎日リハビリを繰り返しているうち、歩けるようになり、字が書けるようになり、ここまでこぎつけた。
だから落ち込んだら駄目、自分は、不遇だとか、不安だとか、運がないとかじゃなくて、これが一つのチャンスなんだ。
ここから僕は大切なことを気づかせて頂いて再出発する。そんな思いで取り組み直したら良いですよ』
そんなビデオレターを送った。

それで広島で講演する機会に見舞いに行った。
まだ、四十五歳なのに六十のおじさんかと思ったぐらいにしょげ返っていた。
「あっ、この人は諦めたな」
ビデオレターが届いた時、挑戦しようと努力した。
でも、人間は成果が出てこないと続かない。
「これだけやったのに、どうにもならなかった」と気落ちして、
「もう生きていてもしょうがない」という世界に落ち込んでいた。
それで僕は、見舞いに行った時に半野さんに言った。
「半野さん、あなた、車椅子に乗っていらっしゃるけども、それは辞めた方が良い。
車椅子を外して、歩けなくても歩く事をしなさい。
そうしないと右足がそのまま固定してしまいますよ。
歩く練習をする事が大切です」
「でも、歩けない、だから車椅子に乗ってるんじゃない」
「現実はそうかも知れないけれども、その現実を受け入れてはいけない、
必ず治るんだということを信じ、車椅子無しで足を引きずりながらでも歩いた方が良い」
と私は言った。
「車椅子を外したほうが良い、歩く練習をしたほうが良い」というのが新鮮に響いて
「もう一度やってみよう」と思った。
そこから彼の戦いが始まった。

そこで嬉しかったのは、奥さんが、私の「下座に生きる」という本を読まれ非常に心を打たれた。
これをお父さんに読んでもらって、お父さんに頑張ってもらいたい、生きる気力を持ってもらいたいと病院に持って行った。
「お父さん読んで」でも半野さんは気落ちしもう読む力がない、ベッドの横に置いたままだった。
それを見て奥さんが、なんとか主人に読ませたいと、その本をテープに吹き込まれた。
毎日十五分だけテープに吹き込んで、お見舞いの時に持って行った。
「お父さん、これ聞いて」とテープを渡すが、半野さんは聞かなかった。
ところが夜は眠れない。しょうがなしにテープを聞いた。
その中に相田みつをさんの詩を書いていた。

『どうにもならないときがある
 ただ
 手をあわせる以外に方法がないときがある
 本当の眼がひらくのはその時だ』

この詩を読んだ時に、もう半野さんは電気が体に走った。
彼は深夜の病室で泣いた。
一所懸命になって真面目に頑張ってるのに、なんでこんな不幸が襲うんだ。
そこまで追い詰められて、相田先生の
「本当の眼が開くのはその時だ」
というのに非常に共鳴した。
そうだ、今まで、辛い苦しい、もう生きていたくないということばかりだったけれど、
そこまで追い詰められたから本当の眼が開く。
聞くと奥さんも涙声でその詩を吹き込んでいる。
そうか、恵子も同じ気持ちだったんだ。
深夜の病室で彼はおいおい泣いた。
病気には肉体的なことを超えて、気づかせようという天の計らいがあるということに気が付いた。
半野さんは生きようという世界に変って行く。
六ヶ月間の闘病生活が終って、彼は退院した。


思考が人生を創る(二)(神渡良平講演録より) 

 北海道の知床半島の付け根に、西念寺というお寺があります。
そこで坊守なさっていた方、鈴木章子さん、
この方は癌で亡くなられたんですが、闘病中、心揺れ動いて、今死ぬわけにはいかない、
どうか生かせて欲しい、そういう状態だった方が、
兵庫県のお寺の住職で小学校の校長先生だった東井義雄先生と手紙をやり取りするようになる。
彼女は乳癌の手術を受けて、闘病生活が始まった。
その時に東井先生は手紙の中に書くんです。
「章子さん、あのね、ベッドの上で、いろんなことに気づかされるだろうと思う。
是非それをノートに書きなさい。
実はそれは仏様があなたに語りかけていらっしゃる言葉なんですよ。
より深いところを汲み取るためにも、僕は書いたほうが良いと思う」
そう言われて、彼女に書くことを勧められたんです。

彼女は東井先生に手紙を出しました。
「お説教というのはお寺にいて、お坊様から話を聞くものだとばっかり思っていましたけれども、
ベッドの上が仏様のお説教を聞く最善の場所だとは、今まで知りもしませんでした。
早速、私はそれを実行します」
 そう言って大学ノートを買ってきてもらって、その表紙に「私の如是我聞」と書くんですね。
私はこうこう法を聞いたって。
そして病院の中で様々に気づかされていく事を書くうちに、
実は、自分がどれほど恵まれていたのかという事に気が付いていくんです。
 七歳の少年が廊下を歩いている。点滴を外すことができなくて、
点滴の管を刺したまま、その点滴のビンを持ちながら歩いている姿を見て、
あるいは、生まれたばかりの子供が、沢山のチューブをつけ保育器の中で病に耐えながら生きようとしている。
その姿を見てその方は、
「私は四十六歳、
交通事故に合って突然命を失ったとしても不思議ではないのに、
癌を賜ったお陰で、生死の大事に直面させられるようになり、考える事が深くできた。
癌になったお陰で、私は命の意味合いについて考えることができた」  
と彼女の世界がズーッと変って行くんですね。
癌になったお陰で私は、私の幸せに気づかされました。
そんなことを書いて、彼女はこの世を旅立って行ったわけでした。
あれほど泣いてわめいて、まだ子供が小さい、夫も助けなきゃいけない、死ぬわけにはいかないと言って苦しんでいた人が、
そうではなくて、癌を受け入れて世界が変っていったんです。
しかし、彼女の乳癌は転移して、骨髄転移し、肺に転移し、脳に転移してもう助からない状態になってきました。
それで病院の先生が、最後はもう家で迎えなさいと言われて、それで家に帰るんですね。
そして、最後の時間を夫と一緒に過ごすんです。

 彼女が「私の如是我聞」という大学ノートは五冊に及ぶんですが、
その最後のノートに書いた詩があるんです。

「一日が終って、お父さんまた明日」と言って
シーツを置いていく。

 テレビを見ている夫が顔をこちらに向けて、
「お母さん、また明日会おうね」と言ってくれる。

 そして朝がやってきて、
「お父さん、また会えたね」
「お母さん、また会えたね」

恋人同士のような暮らしをしています。
今まで四十六年間、こんなことは一度もありませんでした。
癌になったお陰で私は、私の幸せに気づかされました。

 そんなことを書いて、彼女はこの世を旅立って行ったわけでした。


   思考が人生を創る(三)(神渡良平講演録より) 
 私が以前に書いた「マザー・テレサへの旅路」という本があります。
今生きていらっしゃる人達の中で、最もメッセージを持っている人。
僕達に語りかけるものを持っている人は誰だろうと考えた時
マザー・テレサだと思ったんです。
それで、マザー・テレサの伝記を書こうと思い立って、
いろんな資料を手に入れて研究していったんです。

そのうちにどうしてもカルカッタに行きたいと思うようになりました。
マザー・テレサのグループと一緒に、
死を待つ人の家で働いたり、
孤児院でボランティアをやりながら、
彼女達のグループの中に脈々と流れてる精神を感じ取りたい、
そう思ったんです。
 ところが、彼女が倒れたというニュースがテレビに流れて、
アメリカから心臓病の手術の大家が急きょ、カルカッタに駆けつけ、
マザー・テレサの命が危ぶまれる事になったわけでした。
 私はカルカッタに行っても、お会いすることはできない、
しかしお会いできなかったとしても、シスター達と一緒に仕事をする中で、
あの世界を感じ取りたい、そう思ってカルカッタに行きました。
案の定、マザー・テレサは病院でしたし、お会いできませんでした。
マザー・テレサの施設はカルカッタ市内に七つあるんです。
「死を待つ人の家」とか、「孤児たちを集めている家」とか、
いろんなところがあるんですが、そういったところで奉仕活動をして
朝晩のミサに参加しておりました。
丁度三日目の事でした。
夕方のミサに参加しておりましたら、礼拝堂は細長い礼拝堂なんですね。
それの左半分がシスター達で、右半分が私達ボランティアとか地元の方が参加する場所なんです。
私は丁度、境目の所の、後ろの所にいつも座ってミサに参加してたんです。
ミサの半ばぐらいになって、車椅子で入って来た人がいました。
それはマザー・テレサじゃないですか。
ええ~!と思って、
「ああ、この人がマザー・テレサ」というような感じでした。
見ると、着ている物も継ぎはぎを当てたようなものを着ていらっしゃるし、
靴下も継ぎが当たった黒い靴下を履いていらっしゃいました。
修道会の創始者でもあり、ノーベル平和賞も貰った人だから、
それなりの椅子が用意されていて、そこにお座りになってもおかしくないだけれども、
一番出入り口に近い、人が出入りするそういう下座の所に座られて、
一緒にミサに参加されたわけでした。
そういうマザー・テレサを身近に見ながら、終わるとみんな自分の部屋に帰られるマザー・テレサを囲んで、いろいろ話をするんですね。
そういうマザー・テレサに励まされて、私も毎日ボランティアに行っていたのでした。

 ある日、プレム・ダンという重度の障害者を抱えている病院で仕事をしていた時です。
朝、最初各病室の掃除から始まるんです。
みなさん簡易ベッドで寝ているのを、起こして簡易ベッドを片付け掃除が始まる。
片付けると、あちこちウンコの山ができている。
体力がないから、自分のベッドの脇で用を足す。
そういうのが山のようになっている。
それをバケツで洗い流し、デッキたわしで磨いてシーツを洗う。
部屋がきれいになったら患者さんの沐浴の手伝いが始まる。
風呂場でバケツにぬるま湯を入れ、頭からかけながら、一人一人の体を石鹸で洗う。
そんな事をやっている時でした。
お風呂場に路上から拾われてきた右足を骨折した乞食のおじいさんが担ぎ込まれて来た。
かかとが骨折し、骨が突き出していた。
蛆虫が湧いて腐っていて非常に臭いも激しかったんですね。
彼のテイク・ケアをしようとしたら、泣いてわめいて傍に寄せ付けない。
困っていたら、通りかかったボランティアの青年が
「僕がやろう」と言って、その方をなだめ着ている物を脱がし、体を洗い、右足の消毒が始まった。
消毒液を溜めたバケツに足を入れ、ピンセットで腐ってる肉をつまみ出して行く。
蛆虫がいる。
蛆虫を引っ張り出すと、もう泣きわめくんですね。
そのおじさんを動かないように押さえ込んで、右足の治療をする。
それが終ったら、当然、彼を担いで病室に僕は行くものだと思っていました。
ところが、その青年は、彼を抱きしめたんです。
するとそれまで泣いてわめいて人を寄せ付けなかった、
その乞食のおじさん、ポロポロと涙をこぼしたんですね。
インドのカースト社会というのはひどい社会で
一番下の不可触民は、人間とみなされていません。
彼は幼い頃からそういう扱いしか受けてこなかった。
それを抱きしめる。
その暖かさがその人のかたくなな筋肉を解きほぐしたんだと思うんですね。涙が出ました。
そのシーンを見た時に私は
「ああ、僕はこれを見る為にカルカッタに来たんだ」と思いました。

マザー・テレサはいつもこうおっしゃっていたのです。
「みなさん、
わざわざカルカッタまで来て、ボランティアをして下さってありがとう。
でも、気をつけて欲しい事があるんですよ。
私達がやっている事はソシアルワーカーがやっている事と全然変りません、
だから、ソシアルワーカーのようにやってしまったら、私たちがやっている意味はなんにも無いんです。
その人が
「私は生きていて良かった、これほど大切にして頂いてありがたいな」
というふうに思って頂かなかったら意味がない。
どうぞ、相手の方の心に触れるようなそんな出会いの時を持ってくださいね」


  思考が人生を創る(四)(神渡良平講演録より) 
 私が「マザー・テレサへの旅路」という本を書いた時に、私は一つ大切な事を発見しました。
それはベルギーの女性で、ジャクリーヌ・ド・デッカーさんという人が1957年、マザー・テレサの修道会に献身したいと来られるんです。
マザー・テレサもそういう修道女志願を受け入れたかった。
けれども、ジャクリーヌさんは病気持ちでした。
 修道女になることはできませんで、そのまま帰って手術を受け、二回も三回も手術を繰り返すという状態になっていったんです。
彼女はすっかり気落ちして、自分は生涯を修道女として捧げたいと思ってたのに、修道女にもなることができなかったと落ち込んでいたところにマザー・テレサから手紙が来るんです。
「ジャクリーヌさんお願いがあります、どうぞ私たちの為に祈っていただけませんか」
 修道院は九時には消灯です、九時には皆さん各部屋に入られて自分のベッドで休まれるんですが。
マザー・テレサは三畳ほどの自分の部屋に帰られると、それから世界中から来ている手紙や献金やなにかに対するお礼のカードをお書きになる。
それが夜中の二時まで続くんです。
そして朝四時半のミサに参加される。
毎日二時間、三時間の睡眠しかない状態の中で生活していた。
こんなに苦しい事は、もう他のシスター達にはやらせたくないと思うような生活。
だから、彼女の手紙にあるんですね。
「私の時間は人がコッペパンを食べるように食べつくされてしまっています」と。
だから、彼女はジャクリーヌに手紙を書いた。
 「私は祈りがどれほど大切かと思ってます。
でも、現実には日常生活において、時間を取ることができない。
だから、どうぞ私たちが表に出て働きますから、背後で祈っていただけませんか。
そしてその祈りの場を、どうぞ世界中に広げて行ってください。
病院から病院、その寝たきりの人達が手をつないで、そして私達ができない分を祈って下されば、私達は体が動きますから、貧民街に行って貧しい人達に奉仕しますから、どうぞ祈りで支えて下さい」
それでジャクリーヌさんは、自分の生き甲斐を見出す。
「ああ、自分にもそういう形の参加の仕方があるのか」と発見し、その祈りの輪を世界中に広げて行った。
「マザー・テレサ愛の宣教者会」という組織です。
それから二十五年後、マザー・テレサがノーベル平和賞に選ばれ、ストックホルムに呼ばれた時、彼女はジャクリーヌを連れて行った。
壇上に上がってスピーチする。
その背後にジャクリーヌがいて「私は生きてきて良かった」と感じる事ができた。
その事を書いてたのを講演会を企画していた半野さんの奥さんが発見される。
「祈り」というものが表における活動を支えなければ、それはただのやかましい鐃(にょう)はちに終ってしまう。
それで半野さんに言う。
「表に出てビラを配るのは私達がします。
あなたは家にいて祈って下さい。
必要な人と出会わされるように、必要な人がそのパンフレットいただくように祈ってください」と言う。
半野さんはその三月三十一日の講演会に向けて、祈りの生活をする。
そして、当日三月三十一日。二百五十名入る会場に、なんと二百三十九名が入ったんです。
講演会は素晴らしい講演会になりました。
半野さんは確信をうる。
「いける!」
それで彼の中に僕にしかできないようなビデオを作る事ができるという世界に変って行った。
ある時、彼から手紙が来ました。
パソコンで書いている手紙でした。
僕は彼に言いました。
「半野さん、手書きの手紙を欲しい。
手書で書いたら字がとても読めないような字になるからって気遣ってワープロで打ったんだろうけれども、この一枚の手紙、読めないような字、僕も昔はそうだった。
でも、それが練習になるんだ。
全ての事を手書きでやっていけば、そのうちに人が読めるような字になってくる。
だから最後にお詫びして、本当に字がふるえてしまってごめんなさいとお詫びすればいいんだから、とにかく自分で書きなさい」
彼はもう車椅子に乗ってません。
足を引きながらですけども歩いています。
まだ麻痺が残ってますが、右手で手紙を書くまでになった。
それを見て思うんです。
天は私達に逃げる事ができないような立場に追い込んで、大切な事を教えて下さる。
その人の人生を光り輝かされるではないか」


思考が人生を創る(五)(神渡良平講演録より)

 私は、毎朝散歩に出るのが趣味です。
 朝四時半に起きて散歩に出て、一時間半ぐらい田んぼの中を歩いて家に帰って来ます。
冬場は全く星空です。
 今は四時半というとやっと明るくなってきたかなという感じですね。
いつも散歩している時、不思議な夫婦に出会うんです。
ご主人が八十歳、奥様が七十二歳。
こんな星がまたたいている時間によく散歩しているなと思っていました。
なんだろう、このご夫婦は。
それでこの夫婦はいつも水筒を持って歩いている。
ある時一緒になってその水筒のお茶を頂いて、話をしたんです。
そうしたらその七十二歳の奥様は四年ぐらい前はヨチヨチ歩きだったんです、おそらく病み上がりなんだろうなと思うような歩き方でした。
 その奥様は、実は脳梗塞で倒れて病院に入って、十ヶ月間意識不明だったんだそうです。
それでご主人がその意識不明の奥様の意識を呼び覚ます為に、手足をさするんです。
寝たままですと、当然筋肉が衰えていきますし、関節が固まってしまうし、背中には褥瘡(じょくそう・床ずれ)ができますから、褥瘡ができないように二時間おきに体位を変え、そして寝ている奥さんの手足を動かし足を曲げたりしてリハビリをやって、体を刺激する事によって魂を呼び覚まそうとして努力なさるんです。
二ヶ月経っても三ヶ月経っても、四ヶ月経っても一向に反応しない、昏々と眠り続けているわけです。
それでもご主人は一所懸命に続けるのです。
十ヶ月間、彼は奥様の手足を伸ばしたり曲げたりやり続けるんです。
 十ヶ月めに「う~ん」と奥さんが唸るんですよ
「やった~っ!」って、それで彼女が意識を回復するんです、それが丁度十ヶ月ぐらい。]
それから更に八ヶ月間病院にいたんですが、全部で一年六ヶ月の病院生活でした。
 最後の頃、奥様はベッドから降りる事はできたけれど、歩けない。
廊下の手すりを伝い歩きする状態だった、二mしか歩けなかった。
その奥さんが退院してから、ご主人が励まして「とにかく、歩こう」といって歩き始めた。
今日は三m歩けた、今日は五mも歩けたといって喜んでいた。
段々時間が長くなって、今日は三十分頑張れた、今日は四十五分歩けたというふうに励ましていかれた。
私はね、ご主人の話を聞いて凄いなと思ったのは―。
 単にリハビリだったら人間は辛いです。
こんなに努力したのに成果があがらないと思ってしまう。
そこで、奥さんを動機付けした。
娘さんが結婚してロス・アンジェルスにいる、そのご主人が、ロス・アンジェルスの郊外にイスズの工場に勤めている。
「おいお前、ロス・アンジェルスに孫の顔を見に行かないか」と言うんです。
奥さんとしてみれば、これは元気になって、歩けるようになってアメリカまで行きたいと思うじゃないですか。
そういう動機付けをなさる。
それで、一年経ち二年経ちというふうになっていく。
 今では毎朝二時間半歩いている。
何で早朝歩くんですかと言ったら、最初は日が昇ってから歩いていた。
でも、段々夜明け前の輝きに魅せられるようになった。
人間、宇宙の霊気を授かるのは夜明け前だという事に気が付いて、それで朝の早朝の散歩をするようになったとおっしゃっていました。
今は、そのロス・アンジェルスにも旅行に行ったし、北海道にも温泉旅行に行ってらっしゃる。
昔四年ほど前はヨチヨチ歩きだったものが、今はスタスタ歩けるようになった。
奥さんがおっしゃってました。
「歩くという事は、脳を活性化させます。
当時、私はすっかり感情を失っていました。
顔は能面みたいになり、喜怒哀楽の感情が全然無かったんです。
でも、毎日歩いているうちにもう一度自分の中に、この表情が甦ってきてこんなふうになりました」
とおっしゃっていました。


   思考が人生を創る(六)(神渡良平講演録より)

○買い物に行くがてら、家内に話す。
「ほら、一風堂っていうラーメン屋さんがあるでしょう。
(一風堂では、水代わりにルイボスティーを出していて、それも秘かに気に入っている)
博多の河原成美さんという人がやってる店なんだ」

 河原さんはテレビのラーメン選手権で三年連続優勝したほどで、店もいつも行列ができている。たまに食べに行く。

「神渡さんという人の講演の中に、この河原さんのことを話していてね。
河原さんのお父さんは福岡の名門私立高校の先生だった。
お兄さん達は非常に優秀で、長男はパイロット、次男は大学教授、彼は三男だけどできが悪くて漫画に明け暮れていた。
どうせ僕なんか親父は相手にしていないと決め込んでいた。
高校受験を控えた中三の時、あんまり勉強しないからと母親が怒って、彼が大事にしていた漫画屋、漫画の道具を全部焼き捨ててしまった。
「お母さん漫画どうしたの?」
「あんたがあんまり勉強せんけん、燃やしちゃったばい」
そう言われて彼は慌ててゴミ焼き場に行ってみたら、自分の宝物、大切にしていた物がくすぶっていた。
ガックリして、ますます彼は自分の世界に閉じこもっていった。
目指した高校も受からない。
大学も二浪して結局目指すところには行けなかった。
そして、福岡のあるスーパーに就職した。
でも、心の中は常にうっ積しているものがあって、昼間はスーパーの店員として働いていたけど、夜は黒装束に着替えて泥棒をして回るようなことになってしまったんだって。
 ところが、二十五歳の時に警察に捕まった。
その翌日、お父さんは高校を辞められた。
そして裁判の時、お父さんが裁判官の前で泣いた。
「申し訳ない、学校の教師として今まで随分多くの子供たちを教育してきた。けれども自分の息子すら教育する事すらできなかった。私が悪かった為にこんな事になってしまった。」と、さめざめと泣いた。
その姿を見た時、河原さんは、お父さんの愛を受け取った。
成績の良い子供だけが、お父さんの眼がねに適っている、自分なんか眼がねに適ってないと思っていたけど、そうじゃなかったと気が付いた。そして「このままじゃいかん!」という気持ちになった。
そこから彼の立ち直りが起きた。
でも、技術を持ってもいない、働く場所もない、
そこで、ラーメン屋に勤めた。
ラーメン屋で働くうち、ひょっとしたら自分には、料理の才能があるんじゃないかと思うようになった。
それで女の子が一人でも入れるような、ファッション性の高いラーメン店を作りたいと、河原さんは「一風堂」というラーメン屋を始めた。
こうして彼の人生が花開いた。
今や全国に三十店舗近くを展開し、年商四十億円の売上をあげるようになった。
それ以上に素晴らしいのは、店員さんたちが輝いている。
河原さんは店員に言う。
「俺は目標を持てなかった時には、昼はスーパーの店員、夜は泥棒家業をやってた。
人間、目標がなくなればそういうふうになる。
でも、ラーメンを通して自分の目標ができて、やっと歯車が噛み合い始めた。
だから、目標をもつという事は大切だ。
自分は何をこの人生で創り上げようという事をはっきりさせなかったら、
昔の俺のように、その場その場、その時その時を過ごしてしまうようになっちまう。
だから、俺のところで働いている間に、そういうものを見つけるように働きなさい」。
そういう話は、腰掛気分で来た青年、アルバイト達に火をつける。
だから、彼等が活き活きとなりはじめた。
そういうものが店の雰囲気を作る。
店の雰囲気もいいから、あれほど流行る。

「思考が人生を創る」まさしく「自分も必要とされている」と気付いた時、そして自分を通し人様にお返ししたいと思い、ラーメンを通し恩返しを始めた時
「一風堂のラーメン」というものが多くの人々の心を打つようになっていった。

 そういう意味で、思考というもの、頭の中で考えるという事がいかに大切かということを神渡さんは強調するんだ。」


「マザー・テレサへの旅路」(神渡良平)より

「マザー・テレサ国際共労者会」の、そもそもの始まりは、ジャクリーヌ・ド=デッカーさんとマザー・テレサの出会いにある。
1948年、ジャクリーヌさんは、スラムに入って貧しい人々に奉仕しようとパトナで看護技術を修得中のシスター・テレサに会った。
シスター・テレサと同じ志をもっていたジャクリーヌさんはその話に共鳴した。

神の愛の宣教者会の修道女となり、貧しい人々に奉仕したいと願ったジャクリーヌさんだったが、まもなく病気にかかって入院、検査の結果、脊椎の進行性萎縮麻痺と診断された。
萎縮の進行を止めるためには、脊椎の移植手術をしなければならないのだが、大変な痛みを伴う手術である。

そこでアントワープに帰り、手術を受け、入退院を繰返す日が続いた。
ジャクリーヌさんがマザー・テレサに書いてくる手紙にはいつも、体さえ元気だったら献身してシスターとなり、貧しい人々のお役に立ちたいということばかりだった。

ちょっと動いただけでも鋭い痛みが走り、首には特別のギブスをつけ、コルセットで体を固めているジャクリーヌさんの病状に、マザー・テレサもいつも心を痛めた。
そこにある日、大変なインスピレーションをいただいたのだ。
それが1952年10月20日付けのジャクリーヌさんへの手紙に書かれている。

「その後、快方に向かわれていることと思います。
いつもあなたのことを考え、あなたの近くにいたいので、あなたの痛みを思いながら仕事をしています。
今日の手紙を読めば、きっとあなたも喜んでくださると思います。
あなたは宣教者会に入会されることを望んでいらっしゃいますが、精神的に入会するというのはどうでしょうか。
 仕事を分担するのです。
私たちの仕事はスラムで働くこと、あなたの仕事は苦しみを受けることと祈りです。
私たちの仕事にはあなたのように肉体的苦しみを負い、そこでなお祈って支援してくださる方が必要なのです。
私の精神的な姉妹となって、宣教者会の一員となってください」


「喜んでお受けします」というジャクリーヌさんの返事にマザー・テレサは喜び、返事を書いた。
ここで初めてジャクリーヌさんを「第二の自分」と呼んだのだ。
自分に代わって痛みに耐えてくれ、祈ってくれるかけがえのない人と。

「あなたが神の愛の宣教者会の“苦しみを受けること”の一員になってくれるというので、とてもうれしく思います。
会の目的は、スラムに住む人々を救済し、清めることで、十字架に架けられたキリストの愛の渇きを癒すことにあります。
あなたのようにひどい苦しみを受けている人ほど、この仕事にふさわしい人はいないでしょう。
 キリストの渇きを癒すためには、私たちは愛を注ぐ聖杯(カリス)をもたなければいけません。
あなたと同じように苦しむ人々のために、カリスをつくってほしいと願います。
その仕事は実際に痛みを感じながらベッドにいるあなたの方が、走り回っている私より適任でしょう。
 シスターはこれから誰でも“第二の自分”をもつことになります。
外で活動する代わりに、祈り、痛みを感じ、考え、手紙を書く“第二の自分”をもつのです。
あなたは私の“第二の自分”になってくれました。
神に感謝します。
ゴッド・ブレス・ユー」


ジャクリーヌさん自身、私の命をながらえてくださいと祈らざるを得ない病弱な人だったが、決して自分のことは祈らなかった。
その代わりいつもマザー・テレサのことを祈った。

「私は病弱でマザー・テレサのお手伝いは直接できませんが、あなたが彼女を通して人々の痛みを癒してくださるよう、祈りの支援を送ります」

だから、マザーはどんな活動にもジャクリーヌさんが祈りで支援してくれていることを感じ、お礼と励ましの手紙を欠かさなかった。
あるときの手紙にマザーはこう書いて励ましている。

「苦しみが多くなればなるほど、十字架上のイエスにより深く似た者となります。
あなたは祈るとき、私を十字架上のあの方により近く引き寄せてくださるようにと求めてください」


「(あなたという)“第二の自分”がひどい苦痛に耐えているおかげで、私は成長し、活動を続けることができます。あなたの手術の回数だけ、私たちのホームが増えていきます」



「下座に生きる」より

   
 三上和志さんは、一燈園の西田天香さんの高弟である。
 ある日、三上さんはある病院に招かれて講話に行った。
講話が終って院長室に戻ると、院長がお願いがあるという。
「実は私の病院に少年院から預かった十八歳になる結核患者がいます。あと十日持つかという状態です。両親も身寄りもなくひねくれて、先生の話を素直に聞いてくれるか分かりませんが、先生の話を少ししていただけませんか」
 三上さんは躊躇したが。
とにかく話してみることにした。
では、支度を整えてと、院長はマスクと白衣を差し出した。
「もしも伝染したらいけませんから。
伝染病ですから」
「伝染すると決まっているわけじゃないから、付けないことにします」と三上さんは少年の気持ちを思って断った。
 隔離病棟には、彼一人いた。
コンクリート剥き出しの寒々とした床の上に新聞紙を敷いて、尿器、便器が置いてあり、入口には消毒液を満たした洗面器が置かれていた。
 少年は痩せて無精ひげを生やし、頬がげっそりこけていた。
目の周りは黒ずみ黄疸を併発しているようだった。
 院長が
「気分はどうかね」
「眠れるかね」
と聞いても顔を向こうに背けて答えない。三上さんは向こう側に廻って顔を覗くと憎々しげな様子だ。
院長は構わずに言った。
「こちらにいらっしゃるのは三上先生だ。先ほどご講和頂いて非常に感動した。
お前にも聞かせてやりたいと思って無理にお願いして来てもらった。
辛抱して聞きなさい。」
 少年は無言のままだ。
三上さんが「おい、どうでえ」と声をかけてもうんともすんとも言わない。
「何とか言えよ」と三上さんが怒鳴ると「うるせえ!」
 院長は「こりゃ、だめですな」と小声で退散を促した。
三上さんも締めて、部屋を出ようとして、もう一度振り返ると少年が燃える目でじっと見ていた。
三上さんは引き返すと慌てて顔をそむけた。
覗くと涙が頬を伝わっていた。
三上さんは決心した。
今晩ここに泊り少年を看病しようと。
「それはいけません。結核ですから移ります」と院長。
「でも、わが子ならそうするでしょう。
明日はどうなろうと今日一日真であれば、明日死んでも本望です。」
院長は何も言わなかった。
三上さんは病室に戻った。
「おい、こっちを向けよ。今日は一晩看病するからな。」
「チェッ、もの好きなやつやな」と言いながら顔を向けた。
「お前の両親はどうした?」
「そんなもん、知るけ」
 少年は激しく咳き込んで血を吐いて言った。
「おれはなあ、うどん屋のおなごに生まれた父無し子だ。親父は大工だそうだ。お袋が妊娠した途端、来なくなったってよ。お袋はおれを産み落とすとそのまま死んじまった」
「うどん屋じゃ困って、人に預けて育てたんだとよ。俺が7つのときに呼び戻して出前をさせた。学校じゃいじめられてばかりで、店の主人からはいつも殴られた。だから十四のときに飛び出した。神社の賽銭泥棒をして暮らした。でも警察に捕まって、少年院に送られたが肺病にかかった」
「そうか、いろんなことがあったんだなあ」
三上さんは少年の足元に回って少年の枯れ木のような細い足を擦った。
「おっさんの手は柔らかいなあ。お袋の手のようだ」
「おっさん、あのなあ!」
「なんじゃ」
「もうすぐ賄いのおばさんが夕食を持ってきてくれるが、一人では食べられん。匙でお粥をすくって、ちょっとづつ口に入れてくれ」
 三上さんは言われたとおり少年の口に運んだが全部は食べ切れないでお粥を残した。
「おっさん、夕食はどうするんだ。おれの残りを食え」と少年はじっと見ている。
三上さんは覚悟を決めて、
「よし、じゃあ貰うぞ」と合掌し少年が食べた匙で食べた。
「おー、食べたな」少年はうなった。
「おっさん、笑っちゃいかんぞ。一度お父っちゃんと呼んでいいかい」
三上さんは少年の顔を見た。
真剣そのものだ。
「ああ、いいよ。わしでよかったら返事するぞ」
「おとっちゃん」
苦しい咳の中閉じた目に涙を流して少年は言った。

少年はもう一度言った。
「おとっちゃん」
「何だ。おとっちゃんはここにいるぞ。」
大声をあげて少年は泣いた。
わあわあ泣く少年を。毛布の上からさすりながら、三上さんも何度も鼻を拭った。
少年は明け方とろとろと寝入ったが、三上さんは、一睡もしないで足をさすり続けた。

「おっさん、昨日、病院の人たちに話をしたというてたなあ。おれにも何か話してくれ」
白み始めた早朝の薄暗がりの中でいつの間にか目覚めたのか、少年が言った。
「聞くかい。
 お前は何のために生まれてきたか知っとるか。生まれてきた意味だよ」
「そんなことわかるけ・・・・・」
「誰かの役にたって、ありがとうと言われたら、うれしいと思うだろう。
 お前、いままで誰かの役に立ったかい」
 何かを考えるようにしていた少年は投げ出すように言った。
「おれはダメだ。もうじき死ぬんだ。人の役に立てって言ったって、いまさら何ができるんだ」
「できる、できるぞ。なあ、お前、ここの院長先生やみんなに良くしてもらって死んでいける。だからみんなに感謝して死んでいくんだ。それがせめてもの恩返しだ」
「おっさん、わかった。これまで気に入らないことがあると、
『バカ野郎、殺せ!』って怒鳴っていたけど、これからは止める。言わないことにする」

三上さんはその日、高校で講演会があり、去ろうとすると、少年は三上さんの手をしっかり握った。冷たい手だった。

三上さんが院長室に戻ると、院長先生がいた。昨日、院長室のソファーで寝たようだ。
「あなたがあの部屋で看病していると思うと帰ることができなかったのです。
夜中に二度ほど様子を覗きにいきました。夜通し足をさすっていらっしゃったのをみて、頭が下がりました。」

その時、院長室のドアがあわただしくノックされた。
「ちょっと報告が・・・」と若い医師が入ってきて、院長に報告した。
「三上先生!津田卯一がたった今息をひきとりました」
若い医師はまじめな顔でこう切り出した。
「不思議なことがあるんです。あいつは、何か気に入らないと『殺せ!殺せ!』とわめいていました。なのに一晩でまるで変わってしまいました。
今朝、私が診察に入ると、ニコッと笑うのです。
『おっ、今朝は機嫌がよさそうだな』と言い、消毒液を入れ換えて、いざ診察にかかろうとすると静かです。診ると死んでいたのです。
うっすらと微笑すら浮かべていました。
そして、なんとはだけた毛布を直そうとしたら、毛布の下で合掌していたんです!あいつが、ですよ・・・。合掌していたんです。」
三上さんは顔をくしゃくしゃにしてしゃくりあへながら言った。
「卯一、でかしたぞ。よくやった。合掌して死んでいったなんて、お前すごいなあ。すごいぞ。」

2005.3.13
午後、板東観音霊場第十三番浅草寺に参る。
雷門と仲見世との間が大変な混雑だった。
こぶ平が林屋正蔵を襲名するということでお練りをしていた。
こぶ平さんは下町に好かれている。
こぶ平

浅草寺の賽銭箱の上の「施無畏」の額は鉄舟先生が「剣の極意」と喝破されたものである。
施無施
(フリーページの山岡鉄舟「施無畏(せむい)の剣と浅草の観音様」参照)

 神谷バーに寄り、特製の電気ブランを頼む。
飲みながら「下座に生きる」を読んでいたら、感動した。

 トラクタークレーンのトップメーカー、タダノの多田野さんが一燈園の西田天香さんのもとで修行した話があった。
 創業者の父の会社を引き継いだものの、社員は言うことを聞かず、思い余って一燈園に赴いたのであった。
 天香さんは、多田野さんに、一個のバケツと雑巾を手渡して、これをもって家々を回って
「どうぞ、お宅の便所を掃除させてください。私の修行のためです」と頼みなさいと言われた。
 多田野さんは、家々を廻って頼んだが、
「うちはきれいにしています」
「いま手が空かないので、またにしてや」
「よそに行ってや」
とことごとく断られた。ドアをピシャと閉められた。
朝から廻って夕闇が迫ってくるが、まだ一軒も便所掃除できていない。
ある農家を尋ねたとき、もう土下座して「どうか掃除させてください」と
額を地べたにこすりつけて頼んだ。
その家の主婦は心打たれて、とうとう許してくれた。
便所を掃除しながら、多田野さんはぼろぼろ涙をこぼしていた。
「ああ、この気持ちだ、この気持ちで社員一人ひとりに接すればいいのだ。」
社員は管理し、自分の思い通り働かせているのではなかった、働いていただいているのであった、そういう気持ちが大事なのだと気づいた、
一燈園の研修を終えて会社に帰った多田野さんは、日給制を月給制に変え、週休二日制を導入したりした。社員も社長のそんな社員を思う誠実な対応に打たれて生産性の高い会社へと変貌したのである。

 さらに、著者の神渡さんが、栃木県の内観道場で内観した体験が書いてあった。
一週間、外界と遮断して朝六時から夜九時までひたすら瞑想する。
 1 してもらった事
 2 それに対して返した事
 3 迷惑をかけた事
 それらを父母、兄弟、妻子と集中して調べ、指導の先生に話すのだという。
 神渡さんの実家は鹿児島の田舎で食料品店をしていた。
ある夜、父が大酒して帰って母と口論になり、とうとう父が暴力を奮った。母は泣きながら「そんなにおっしゃるなら、私はもう付いていきません」と箪笥から着物を出して風呂敷に包みだした。
幼い神渡さんは、妹と二人、母の袖にしがみついて、
「母ちゃん、出ていかんでくれ」と頼んだ。
母親は涙声で「かわいいお前達を残して、どうして出て行けようか。
母ちゃん頑張るからね」とその時の記憶と頬にかかる母の涙を思い出して、
神渡さんは内観しながらワンワン泣いたという。

☆「喜神(きしん)を含む」という言葉は、安岡正篤氏が座右の銘にされていた言葉だという。
中国の古典「格言連壁」に出てくる言葉だという。

「この場合の神(しん)とは精神の神であって、心の一番奥深いという意味です。
したがって『喜神(きしん)を含む』とは、
たとえどんな扱いを受けようと左遷されようと、それはそれとして甘んじて受け入れ、
それすらも感謝で受け止める。
そして、心の奥深いところにはいつも喜びの気持ちをいただいて事に臨めば、
そういう人の運勢は再び上昇気流に乗って開けていく。
要は腐らないこと。腐らないどころか、感謝して、喜びの気持ちすら抱いて事に臨んでいくことだ。
人生は自分では予想もつかなかったことが起きるもので、人生というものはそういうものです。
その人生をわたる秘訣が『喜神を含む』ということなのです。」
(「生き方のヒント」神渡良平209ページより安岡正篤氏の言葉を引用)



© Rakuten Group, Inc.