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心の灯火は消えず「日本捕虜志」by長谷川伸

8月15日日本が降伏した直後シンガポールに二木可南子という20歳になる女性がいた。
東京で陸軍に徴用され、同じ年頃の娘3人とシンガポールの医薬部隊に配属された。
可南子さんの父、二木忠亮はイギリスのロンドンで個人経営の商店を営んでいた。
可南子さんはロンドンで生まれ、ロンドンで育った。
可南子さんの母がロンドンで亡くなったので、父は娘を連れて日本に帰った。
やがて戦争が始まり、父は徴用され、大尉相当官の英語通訳を命ぜられ、マレイ半島の攻略軍に配属された。
可南子さんも徴用されたが、父のいるシンガポールへと条件をつけたのが、聞き入れられて医薬部隊に配属されたのである。

医薬部は軍医少将の指揮下で、軍医中佐3人と薬剤の中佐と主計少佐など6人いた。そして徴用の技術者が600人いた。女性は可南子さんのほかに3人。いずれも英語が書けてタイプが打てた。
ことに可南子さんの英語は格調が高かった。

部隊としては接収のときのもつれを未然に食い止めるためにも4人の女性に残留してほしかった。
しかし接収に来るイギリス人がすべて敬虔で紳士的とは限らない。
結局一人ひとり説得することとし、可南子さんには軍医官が当たった。
軍医官は勇気を奮ってこう言った。

「あなた以外の三人の女性にも、残留してもらいたいと、それぞれ今お話をしています。」

「喜んで残留いたします。」

軍医官の言葉が終わると同時に可南子さんはそう答えた。

「え?」

「わたくし、東京へ帰っても父はおりません。」

「そうでしたね。あなたのお父さまはあのころから消息が絶えたのですね。」

可南子さんの父はその言動が軍の一部の怒りを買い、危険な地域に転出され、消息が絶えていた。

「ええ、ですから残留を喜びます。
父はいつになってもシンガポールに、わたくしがいると信じているはずです。
父は消息が絶える少し前に言いました。
『父と子のどちらが遠くへ転出となっても、一人はシンガポールにいようね、
もう一人はいつの日にかシンガポールに必ず引き返してこよう。
いつの日にかシンガポールで再会の時があると信じて』と。」

「二木さん、有難う。今後の仕事はあなたを疲労させるでしょうが元気を出してやってください。お願いします。」

「はい。愛国心は勝利のときだけのものではないと、散歩しているとき、父が突然そう言いました。」

「そうでしたか。勝利のときより敗北のときこそ愛国心をと、お父様が言ったのですか。

二木さん、もう一つ、人すべてが善意を持っていはいない。忌まわしい心を持つものもあるのです。

僕は、いや僕たちはあなた方4人の女性に危機が迫ったとき、人間として最善をつくすために死にます。

これだけがあなたがたの残留に対して、わずかに確約できる全部です。」

「いえ、そのときには少なくともわたくしは、一足お先にこれを飲みます。」

襟の下からチラリと見えたのは青酸カリでした。

軍医官が唇をかみ締めて嗚咽を耐えたが、ついに咳を一つした。それは咳ではなく押し殺したしのび泣きだった。

「できたらどうぞ、わたくしの死骸にガソリンをかけて、マッチをすっていただきたいのです。・・・」

9月1日キング・エドワード病院にイギリスのハリス軍医中佐一行がやってきた。
4人の女性は青酸カリに手をかけて、窓のカーテンに隠れるように成り行きを見ていた。
戦車隊に先行し、イギリスの武装兵が300人ほどがやってきた。
ハリス中佐と老紳士が印象的だった。
老紳士は医学博士グリーン氏だった。彼は穏やかなまなざしで言った。

「日本人の皆さん、私はまだあなたがたの気持ちがのみこめないので、武装した兵を必要としました。
日がたつにつれ、武装しない兵をごく少数とどめるだけにしたいと思います。
皆さんはそうさせてくれますか・・・」とにこっと笑った。

ある日、日本刀が幾振りも隠されていたのが発見された。

グリーン博士は激しく怒った。

「ここの日本人が私を裏切ったのが悲しい。私の憤りを和らげうる人があれば、言うがよい。」

可南子さんは、軍医の意を受けて弁明をした。

芸術としての日本刀の在り方、名刀の奇蹟の数々、新田義貞が海の神に捧げて潮を引かせた刀、悪鬼を切り妖魔をはらった刀などの伝説の数々を。
日本の言葉で昼行灯という言葉がある。これを人にあてて薄ぼんやりした人のことをいう。
マレイ人の言葉で白昼に灯を点じていくとは、心正しくうしろ暗いことのない人をいう。
人種と言葉の差のあるところ、感情と思慮にも差があるはずとユーモアを交えて可南子さんは説いた。

苦りきったグリーン博士の顔は、いつか和らぎ、何度もふきだしそうにした。
時折、可南子さんのロンドンなまりの英語を懐かしむように眼を閉じて聞いた。
グリーン博士はロンドン生まれだった。

可南子が席につくと、グリーン博士は言った。
「発見された日本刀は直ちに捨てます。
日本刀を捨てたものの追求はやりません。」

軍医たちは語った。
「いつか警備隊員で色男ぶってるのがいたろう。あいつが上村美保江さんに失礼なことを言ったのさ。すると『汝は警備隊員か侵略隊員か』と毅然として言ったそうだ。
後でグリーン博士は『お前の頭の中の辞書にはレディという項がないのだろう』と言ったそうだ。そこでその兵は転属を志願して二度と顔を見せなくなったそうだ。」

「それはね二木さんが教えたんだ。降伏直後三人の女性を集めて、イギリスの女性という超短期講座を開いたそうだ。だからあの4人はイギリスの兵隊につけこまれることはない。
でもね、イギリスの将校がグリーン博士を訪ねたとき、その3人は階段で会えば、どうぞ先にと譲るけど二木さんは決して譲らないね。僕は何度も見ているよ。
あの子はロンドン育ちだけど、それだけじゃない。
国は負けても、個人の権利をそのために自分で進んで割り引くのは卑劣だという信念があるのだね。」

なお、グリーン博士がかくも寛大だったのは。
1942年イギリス軍が降伏して日本軍が入ったとき、博士も捕虜になった。
監獄はひどかったが、やがて日本軍が敵と味方を一つに視て、双方をあわせて供養した無名戦士の碑を建てたという話を聞いた。
そしてたびたび監獄に来て私財を投じて食糧や薬や日用品をながいあいだ贈りものをしてくれた何人かの日本人がいた。
自分たちが生き延びたのはこのお蔭でいつの日か報いたいと語り合っていたのである。

『わたしはチャンギー監獄で日本人によって人間愛を贈られたのです。
わたしはこれに答えなければならない。』と。」

雨季に入ってグリーン博士はロンドンに帰り、カンニング博士がくるという噂がたった。
グリーン博士は、捕虜の傷心に気がついてこう言った。

「後任のカンニング博士は立派な人物です。

カンニング博士が来られたら、わたしはここにいなくてもいいのですが、皆さんの前途を見届けてからロンドンに帰りましょう。」

医学官たちそして可南子さんは驚いた。
帰還を見届けるといっても、いつになるか分らない。2年後か、3年後か。

グリーン博士の更迭に心配したみんなの心が変った。
ぜひ任務が解け次第、ロンドンにお帰りください、私たちはあなたに毎月手紙を書きますからと。

「そう言っていただけるのは感謝します」

とグリーンは承諾しなかった。

ある日、カンニング博士が着任した。
残留60人の日本人の名簿を博士に提出した。前日、可南子さんがタイプしたものである。

グリーン博士がその名簿を読み上げた。

「上村美保江、守住浪子、成田由美子それから二木可南子」

「おう、フタキ。フタキですね。グリーン博士!」

「そうです。カンニング博士」

「私はこの名をずっと尋ねていたのです。」

まもなく二木可南子さんが呼ばれてこの部屋に入ってきた。
カンニング博士は、またたきを惜しむように可南子さんを凝視した。

「ドクター・カンニング、お忘れになっている言葉をどうぞ」
と可南子さんは毅然として答えた。

「あっ、おかけください。
ぶしつけに見つめて大変失礼しました。
私があなたをみつめたのは、あなたの顔に見出したいことがあったからです。
でも見出しえませんでした。
あなたの家は日本のどちらですか?」

「東京です」

「東京にはフタキという姓は多いのですか?」

「珍しがるほど少なくはありません。」

「タダスケ・フタキを知りませんか?」

可南子さんの心は胸打ったが、声に変化はいささかもありません。

「私の父です。」

「おう」

「1940年、東京へ帰るまでロンドンにいた二木忠亮ならばです。」

「そうです。そうです。そして1942年にシンガポールに日本軍の通訳でいた人です。」

「父です、確かに。」

可南子さんの頬が赤く染まった。

「あなたはあの人の娘か。」

「父をご存じですか?」

「忘れるものですか。」

「父は生きていますか?」

「ああ、あなたも私と同様、あの人の現在を知らないのですか。」

カンニング博士は可南子のそばに来て抱き寄せ、

「カナコの父が、カナコの前に立つまで、私がカナコの父になります。」とささやいた。

カンニング博士も日本軍のマレー攻撃で捕虜になってチャンギー監獄に入れられていた。

200名の捕虜はそこから連れ出されてタイとビルマをつなぐ鉄道の大工事にかりだされた。

その時の捕虜係通訳が二木だった。

二木は捕虜の辛苦をます生活の中で献身的につくした。

病人やけが人、衰弱者があるごとに二木はできるかぎりのことを尽くした。

捕虜たちは二木を神の使徒ではないかと噂しあった。

二木は長期間捕虜達と一緒だったが、1944年に入って突然姿を消し、二木の後任者も彼がどうなったかを知らなかった。

カンニング博士は可南子に遭遇してから、イギリス軍、アメリカ軍、オーストラリア軍、オランダ軍と二木の生死を照会したが一向にわからなかった。

グリーン博士は約束を守って、任務が終了しても日本の捕虜の前途を確認するためシンガポールにとどまっていたが、あるときやってきて

「この雨季が終わったら、皆さんの帰還に私が祝福の手を振る時がきますよ」と告げた。

すざましい雨が通り過ぎた後、2月中旬、カンニング博士が広いホールに飛び出してきて

「カナコ、誰かカナコを呼んできてくれ」と言った。

可南子さんが姿を見せると

「カナコ、お父さんは生きていたよ。

妻から電話で知らせてきた。

グリーン博士も電話で知らせてくれた。」

そのとき、可南子さんは深く微笑んだ。

後でカンニング博士はその微笑を東洋の神秘の花とたたえたそうである。

「カナコ、お父様はフィリピンにいた。

アメリカ軍が今朝知らせてくれた。すぐに希望のところに二木を送還するそうだ。」

これを聞いて可南子さんの眼に涙があふれてきた。

可南子さんは一人シンガポールにとどまり、フィリピンから来た父と再会できたのでした。

DSCF1059.JPG

たおやかに やまとなでしこ 咲きにけり

 りんと気高く たじろぎもせず


グリーン博士が帰還の目処がついた、1946年の桜の花咲く頃にあなたがたは日本に帰れるでしょうとうれしい知らせを告げにきたとき、ちょっと気になることを言った。

「ジェロンの収容所にいる日本人諸君が、あるイギリス人に不満をもっているそうですね。
そういう話を聞いていますか?」

「いえ、聞いていません」

「私も確実には知らないのですから、今の話は取り消します。」

それはどうもこういうことであった。

ジェロン収容所はシンガポールから5マイル離れたところにあった。

帰還船が3隻あったが、輸送指揮官の少佐が男だけ乗せて、女の乗船を許さなかった。

その後、暴風雨が吹く季節風が吹く時期となり帰還船は止まった。

そこで女性のなかで怨嗟の声が起こったのであった。

それを残った男どもが声を合わせるものだから不満は大きくなる一方だった。

3月下旬にやっと1隻入ったが、やはり女性の乗船は許されなかった。

少佐に対する怨嗟の声は大きくなる一方だった。

やっと次の引き上げ船がタンジョン・バガーの大桟橋に入ってきて、やっと女と子供全員の乗船が許された。

女性たちは満腔の不満を胸いっぱいにして乗船してきた。

するとそのイギリスの少佐がお別れにきてこんなことを話した。

「皆さんは私を怨んでいたそうですね。

でも私は皆さんに少しでも楽に日本で帰れることのほうが、私は大切だったのです。

私は船が入選するたびに検分しました。

そして一番気になるところを見に行きました。

この船には婦人用のトイレを心して作ってあります。

これならばほかのところもよいだろうと思いました。

私は戦時用の輸送船にあなたがたをおしこめて不快な不自由な思いをさせたくなかったのです。」

女性たちの顔から恨みや不満の表情が消え、感謝の表情に変ってきた。

そしてその船が桟橋を離れる時、少佐へのせめての感謝のしるしにと

どこからともなく「蛍の光」が歌われ、歌声は60人ほどの女性たちの声で唱和されたのであった。

1.
ほたるのひかり、まどのゆき、
書(ふみ)よむつき日、かさねつゝ、
いつしか年も、すぎのとを、
あけてぞけさは、わかれゆく。

2.
とまるもゆくも、かぎりとて、
かたみにおもふ、ちよろづの、
こころのはしを、ひとことに、
さきくとばかり、うたふなり。


イギリス軍の兵隊達はいついつまでもその船の影が見えなくなるまで見送っていたそうです。


☆「蛍の光」の原曲となったのは、スコットランド民謡の『Auld Lang Syne』である。この曲は作曲者不詳であるが、古くからスコットランドに伝わっていたもので、現在に至るまで、特に知己の仲間内で宴会をした際に最後に再会を誓って歌われる曲である。

この民謡の歌詞を現在伝わる形にしたのは、スコットランドの詩人のロバート・バーンズであり、従来からの歌詞を下敷きにしつつ、事実上彼が一から書き直している。この歌詞は、旧友と再会し、思い出話をしつつ酒を酌み交わす、といった内容である。<蛍の光 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』>

  Auld lang syne by Robert Burns  遠い昔の日々

Should auld acquaintance be forgot,  古き友は忘れられて
And never brought to mind?       二度と心に戻らないものだろうか?
Should auld acquaintance be forgot,  古き友は忘れられて
And days of auld lang syne?       遠い昔の出来事になってしまうだけなのか?

(Chorus)
For auld lang syne, my dear,      遠い昔の日々よ、ああ友
For auld lang syne,           遠い昔の日々よ
We'll take a cup o' kindness yet,   今からでも友情の杯をあげよう
For auld lang syne.           遠い昔の日々の為に

We twa hae paidl'd in the burn,    俺達は二人して焼け野原を歩き回った
Frae morning sun till dine; 朝日が昇ってからお昼まで
But seas between us braid hae roar'd, しかし二人の間には轟く海が横たわった
Sin' auld lang syne.          その遠い昔の日々の後に
(Chorus)

We twa hae run about the braes,    俺達は二人して丘を走り回って
An' pou'd the gowans fine;       花なんかつんだっけ
We've wander'd mony a weary foot,  あの頃は疲れるまで歩き回った
Sin' auld lang syne.           その遠い昔の日々
(Chorus)

And here's a hand, my trusty fere,   さあここに手がある、真の友よ
And gi'es a hand o' thine;       そして君の手も頂こう
We'll tak' a right gude willie waught, そして今日はじゃんじゃん飲もうではないか
For auld lang syne.           あの遠い昔の日々の為に
(Chorus)

And surely ye'll be your pint stoup,  そして君はあっという間にバケツ程飲んで
And surely I'll be mine,        俺もそれと同じくらい飲んでしまうだろうが
We'll take a cup of kindness yet,   更に乾杯の為に飲むことはできる
For auld lang syne.           あの遠い昔の日々の為に


☆グリーン博士は送別の席で収容されていた日本人に向かってこうスピーチされたそうです。

「人生は劇のようです。

私と皆さんとは劇に登場しました。

皆さんはその劇の後半に登場しました。

前半の劇は私とカンニング博士がここにはいない、名前を知らない日本人の皆さんが登場しています。

その人たちは私たちに偉大なことを教えました。

私たちが劇の前半でその幾人かの日本人を見なかったら、また、その行いによって感動することがなかったら後半の劇はなかったことでしょう。

私はその劇に

人の心のともし火は消えず

と題名をつけたいと思います。

皆さん、明日別れて後の生涯に、再会のときがあるでしょうか。

恐らくはないでしょう。

よし、さらばあいまみゆるときはなくとも、お互いの心のともし火は決して消えることはないでしょう。」と。


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