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2015/04/27(月)07:46

木村さんとは母校が同じで、ようく知っています。木村さんがこんなに推薦しているのだから・・・・・・あなたはもう高等学校の入学試験を受けないでいいですよ。

広井勇&八田與一(2163)

木村繁四郎(神中・神高六十年史より略述)  日清戦争も終りを告げ、平和が回復すると、上下ますます教育の必要を認め、各府県は競って中学校を増設した。当時神奈川県は横浜市のごとき世界関門の要衝であるにも関わず、いまだ一個の中学校も有しなかった。  しかし、教育の普及するにつれ、東京通学にはいろいろの不便があり、かつ識者の間には中学教育は地方の施設にまつべきであるとの議もおこり、一般父兄及び高等小学校卒業者の多数もまたようやくこれを渇望するありさまであったので、終に一八九五年(明治二十八年)の県会に、県知事中野健明氏は中学校設置の件を提案し、満場一致で可決された。・・・一八九七年(明治三十年)二月二十三日左の告示を見るに至った。 神奈川県尋常中学校を久良岐郡戸田町戸部に設置す。  同年三月一日、本校規則が公布され、同二日兵庫県立姫路中学校長小森慶助先生が本校校長に任ぜられ、県庁内に本校事務所を置いて校務を処理した。 四月十七日、「神奈川県尋常中学校本月二十一日より開校す開校す」と告示が公布され、四月二十一日から五日間、生徒を募集したし、第二学年に四十五名、第一学年に二百三十六名入学を許可した。 六月十八日に蜂須賀文部大臣代理都築文部次官及び中野知事を始めとして多数来賓が臨場して、厳粛に開校式が挙げられた。以来、この日を開校記念日として毎年記念式を挙げることに定めた。   一八九九年(明治三十二年) 二月六日 神奈川県中学校と改称された。 六月二十八日 小森慶助先生兵庫県視学官に就任、首席教諭木村繁四郎先生校長事務代理、同月三十日本校校長に任ぜられた。   一九〇〇年(明治三十三年) 四月一日 神奈川県第一中学校と改称された。   一九〇二年(明治三十五年) 九月三日 卒業生の同窓会創設、桜蔭会と名付けた。 会員寄稿抜粋  漫談 第一回(明治三十四年)齋藤亀三郎  どうしても省くことのできないのは木村先生だ。薫陶という言葉はこの先生のために出来たのではないかと思われるほどピタリ当てはまる先生で、神中伝統の大半を築いた人はまさにこの校長であろう。先生を偲ぶためには槐陰犂夫小草という詩集がある。この詩集は先生の喜寿を桜蔭会の古い連中が懇請して出版させてもらったのだが、槐陰犂夫は先生の雅号で、詩集は先生の直筆を大塚巧芸社で刷ってもらったのだから書風もわかる。詩といい書といいこれを読むたび温容というか高風をホウフツする。奈須川教頭が木村さんは雲のような人だと評したそうだが、評し得て妙、まさに青空を悠遊する白雲のような先生であった。  神中六十年前の想出    第二回(明治三十五年)森富太郎 当時の環境 母校神中の所在地西戸部は、当時いまだ元の久良岐軍戸太村に属し、横浜市に編入されたのは明治三十四年であったろうと思う。  校地面積二千余坪、木造二階建校舎一棟、生徒控室が南北に一棟ずつ。校地の周囲には、大島桜の苗木千本が植え込まれた。それは保土ヶ谷の素封家岡野欣之助氏の寄贈されたものである。この苗木は数年ならずして成長し、毎年春ともなれば馥郁、爛漫たる花をつけ、希望の光に燃える若き卒業生の前途を祝福してくれた思い出の桜である。桜蔭会の語源がここにあるこというまでもない。 木村繁四郎先生 二代目の校長、温顔、重厚、挙止鷹揚、諄々として生徒を教え導くところ、誠に大教育者の典型、しかも二十有余年の間、名校長として幾多の人材を薫陶、輩出させたいわゆる神中の校風を盛り上げた偉人である。大きな体躯でスロー・モーションだと言うので、「エレファント」というあだ名を奉っていた。全くその通りで姿は優しいが、その教育の力は絶大であった。私は毎年新年の年賀状を差し上げたが、一月二十日頃になって返事が来ることもあった。しかもご自分の名は自筆の特長の文字で書かれてある。一度新年のある日、西戸部の官舎にお訪ねした事があったが、その時先生は笑いを浮かべながら「卒業生や生徒諸君から年賀状が沢山来るので止むを得ず、印刷したハガキで返事をするが、せめて自分の名前だけは親愛の心を示すため、自分で毛筆で書くことにしている。そして卒業生でも先輩を先に出すことにしている。まだこんなにある。」とてハガキの百枚包を手にして見せられた事がある。子弟愛の切情がうかがわれるではないか。私ども二年の時始めて教頭として就任された。当時少しの間、物理化学を教わったが、教授力もなかなかお手の物であった。  思い出のいろいろ  第八回(明治四十一年)小島栄 木村校長に痛烈に叱られた思い出を書いておこう。 当時の制服には、両手をつっこむポケットは許されなかった。しかし生意気盛りのわれわれは、厳冬には校則を無視してズボンの左右にポケットを作って手をあっためていた。果然体操の時、一々調べられて、ポケット組は校長室に引っ張り込まれ、服装違反で木村校長の前にズラリと直立不動で長時間立たされた。校長にさんざん油をしぼられ、即座に両ポケットを縫い付けられ、ようやく釈放されたことがあった。  あの日、あの時     第十回(明治四十三年)長谷川瀏  (長谷川氏は神中三年進級できなかった) それから丸三年、中学の卒業試験を終った。 木村校長が推薦してくれたので、文部省の一室で第七高等学校の岩崎校長に会いに行った。その年、始めて、中学校の優等卒業生を選抜して高等学校へ無試験で入学させるという制度ができた。  岩崎校長は、木村先生からの秘親の書状を読み終わってから、「木村さんとは母校が同じで、ようく知っています」と、ぽっと一言だけ言われてから、じっと私をみつめていた。やがて 「木村さんがこんなに推薦しているのだから・・・・・・あなたはもう高等学校の入学試験を受けないでいいですよ」とニッコリされた。

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