訳・注 鈴木藤三郎「米欧旅行日記」 その3 明治29年8月8日~8月14日
8月8日 晴 午前9時ローレンチェン氏の店に行く。本日、郵便の船便があるので手紙を日本へ発す。またワグネル氏の支配人が来て11時まで製粉器械について相談した。これよりローレンチェン氏の案内で(空白)勧工場を見る。午後3時ワグネル工場へ行き、器械の値段について相談した。また骨炭製造機械の図面及び説明を聞く。午後6時30分宿に帰る。8月9日 日曜 晴 午前9時より北島・藤山・小子3人にてゴールデンゲート公園に行って、人造の大滝を見る。またこの流水は山麓に設けた蒸気大ポンプ4台で1時間に5千石(90万トン)以上の水を引き上げて、この滝を流す。実にその大仕掛けであること、人工で天然をしのぐことは驚きのほかない。これより公園の周囲を回って、市内の中国人街を散歩する。また山の手にあるケーブルカーの蒸気原動機を見る。午後8時から10時まで玉突きをして宿に帰った。8月10日 晴 午前8時30分、ローレンチェン氏へ行き、同氏の案内で当市の南隅のインジャナ及びヒヨロウ街に行き、オトランド商会の骨灰製造場を見る。事務員が案内して懇切に説明する。1日の製炭高は10トンという。うち半分はヌクリプルス精糖所の特約という。これより市内で昼食をとる。そしてまたワグネル製造所へ行き、社長ジョセフ・ワグネル氏に面会する(社長は先日来旅行中で不在だったが、昨夜帰ってとのことで、本日初めて面会した)ここでこの頃カタログの中にある精粉機械1式を注文すること(※)に決定した。また同所で振付技師フイチ氏に面会した。これより明日午前を期してすべて契約の手続きをすることを約束して宿に帰った。この夜サンフランシスコに住む遠州人村松某及び鈴木豹太郎氏が訪ねて来た。ここに夜8時より北島・鈴豹・藤山・私の4人で夜の街の見学に行って、10時30分ホテルに帰る。 ※「黎明日本の一開拓者」144ページには、藤三郎が精粉機械1式を注文した事情について「これは、日本精製糖株式会社の創設者の一人であり、また同年創立された日本製粉会社の重役である村上太三郎氏から、出発に際して同社の機械買入を依頼されていたのである。」とある。また「製粉・製油業の近代化」(笹間愛史)に次の記述がある。「明治29年に東京製粉合名会社は日本製粉株式会社(資本金30万円)に改組され、ロール式製粉の導入を行うことになった。・・・ ロール製粉機の購入は、ちょうど精糖業拡張のためにアメリカに出かける鈴木藤三郎(日本糖業の発展に貢献する一方、各種の発明・事業を行った産業史上の一等星)に依頼された。鈴木は東京の茂須礼商会の紹介で、サンフランシスコのワグネル製造所に200バーレルの製粉設備を注文した。その点については、「このワグネル製造所というのは製粉機械の専業メーカーではなく、各種の産業機械の部品のメーカーであった。だから同製造所に注文したことは、あまり適当ではなかったわけだが、ともかく、かれは製粉機械と付属品および必要な汽罐機械までそろえたワンセットを1万2370ドルで購入する交渉をととのえ、正式の契約事務は茂須礼商会を通じて行なう約束をした」といわれている。(日本製粉社史委員会編『日本製粉株式会社七十年史』77頁) 購入された製粉機械類の一式は、ロール製粉機4台、リール型篩4組精選機2台,整粒機1台、粉詰機1台およびエレベーター類であった。それらについて「ロール製粉機はワグネル製であったが、その他の機械はいずれもメーカーが違い、必ずしも仕様書のとおりに組立てることができなかった……部品の破損も少なくなかった」と書かれているところを見ると、この種の取引はまだ問題が多かったといえよう。それはともかく、工場建設や機械の据付けはアメリカから送られて来た製粉工場の写真や見取図を参考にして行い、「いっさい外人技師の手を借りずに機械にそえられた仕様書と札幌製粉所を見学した知識にしたがって据付けられ、運転が試みられた。」8月11日 晴午前8時30分ローレンチェン氏へ行き、これよりワグネル工場へ行き、精粉器械の契約をする。これよりまたローレンチェン氏のための昼飯のもてなしがある。これより鉄道会社代理店へ行って、大陸鉄道の発車時刻及びその他すべての手続き等を問い合わせる。午後3時ホテルに帰った。このとき、また鈴木豹太郎氏が訪ねて来て、数時間談話して帰る。この夜、手紙をしたためて本国に発する。 8月12日 晴 サンフランシスコ港を出発 午後7時サンフランシスコを出発する。大陸鉄道(※1)の汽車でオークランドまで北島氏が同車した。これより同氏に袂を分かつ。これより汽車は東北に進行し、山あいを経てトンネルを抜け、四方を見ると前には果てしなく広がる平地で青草を敷き、東北は雲に接して山を見ない。平野に一つの巨大な流れがある。すなわちサンジョーキン川である。小雨の時で、ヲナユロップ・ストットンを通りすぎ、サクラメントに到着する(サンフランシスコから139マイル)、ここはカルフォルニア州の首府である。これより平地を走ること50マイル余りで、ニューカッスル辺りから地勢がようやく高くなり、ブロメルゴットの狭い路から山々が重なり険しくなって、進行が非常に困難になる。コルハッキスに達するとき汽車は傾斜して仰ぐように登る。谿谷を渡り、橋を越え、眺望絶景の城に着く。背後は厳しい障壁となり、樹木を負ってひときわ目立っている。前は深い谷でぽっかりと穴があいたように落ち込んでおり、さらにその谷底に一つの村落がある。遥かに豆粒のような人や小さい馬を見る。これよりコールドロン村を過ぎる。この辺りには谷間より渓谷の水を引いて金のまじった砂をよりわける桶をところどころで見る。ドツチュルラット村を経てヲルタに来ても、各家は皆、金を採る家でまた桶の装置がある。これすなわち世界三大金鉱の一つであるという。さて列車は険しいところを走ってサデールンに登ったが、険しい坂はますます急になり、機関車を3両連結してサデールン・チューナリングの2つの高い山が前後を塞いで聳え立つ。険しさが最も極った。この辺りから鉄道は雪に覆われたときの設備がある。それよりウエストポーターのトンネルを抜けて、スシツト村に到着した。この駅はシーラネヴァタ山脈の絶頂であって、海面から海抜7,017尺であるという。峰峰が波をなし、この地に一棟を建設して列車を寄せる。スシット駅を出発して大きなトンネルを通過すれば、これよりだんだん下り坂になって、ツルギー川の辺りから景色が大変絶景となる。これより迂回して下っていき、ワットスウヲルナユ駅に到着する。これよりネヴァタの大平野でハンホールの荒野という。四方の山々は一本の木もなく、川の流れも散漫で人家がない。暑さがひどく熱風は砂塵を巻き上げて、そのため乗客は苦しんだ。これより数多くの村の駅を通過してオグデンに到着する。13日の午後8時である。このところで下車して駅のホテルに投宿する。この夜同ホテルの客室は98度(摂氏36.6度)で安眠することができなかった。※大陸横断鉄道はアメリカ合衆国の中西部と西海岸とを結ぶ鉄道で、1869年5月10日に最初の大陸鉄道が開通し、西部開拓の促進に大きく貢献した。 岩倉使節団が太平洋を横断し、サンフランシスコからアメリカに入国し、この大陸横断鉄道に乗って、1872年1月(旧暦)にワシントンに到着している。鈴木藤三郎が大陸横断鉄道に乗るわずか27年後である。「米欧回覧実記」久米邦武著、水澤周訳より、大陸鉄道中について、藤三郎の日記を理解する上で訳に立つので少し引用してみよう。以下「慶応義塾大学出版会 1 アメリカ編」110~119ページにより、日付は西暦による。1872年1月31日 曇、細かい雨 朝7時にグランド・ホテルを発ち、・・・カルフォルニア太平洋鉄道の列車に乗った。 アメリカでは昼夜を走り続ける列車用に寝台車という車両があり、一等客はこの車両に乗る。車両の両側をそれぞれ6つのコンパートメントに分かち、それぞれのコンパートメントに2人ずつ収まる。1両で24人、中央を通路とし、車両の前後に広い室が設けられ、ここにストーブを焚き、洗顔のための水盤や用水タンクを備え、トイレットもここにある。日中は各コンパーメントの真ん中にテーブルを作る仕掛けがあり、テーブルを挟んで長いすが向き合う。床にはカーペットが敷いてあり、快適である。2人の乗客はテーブルに向かってものを書いたり本を読んだりできる。夜は長いすをあわせてベッドとし、また、上のフックを外すとベッドが一つ降りて来て上下2段の寝台となる。・・・ オークランドの波止場から桟橋をわたり、サンフランシスコ東岸の浜を1時間走ると東に折れ、海岸山脈の谷あいに入った。一本の川が東から流れている。列車はその谷を走る。緑の山々が重なり、ところどころに平野が抱かれていて数軒の農家が集落を作っている。山林はたいへん豊かであり、青草が野に茂って牛や羊がのんびりと動き回っていた。 1時間走ってトンネルに入るとしばらくの間車内は真っ暗になった。トンネルを出ると山脈は後ろになり、前に広い平野が開けた。これは海抜10メートルという低地で、東北の方は雲に接し、全く山を見ない。青い草が毛氈(もうせん)のようで、地面は海のように真っ平ら、草原の中には木の茂みもない。・・・この平野にひとすじの大河が流れており、これがサンホアキン川である。570キロメートルの長流で、カルフォルニア州南部の諸川を合流した大きな川である。土地が平らなので流れはゆるやかで、ところどころであふれ、沼地や湿地を作っている。・・・ 午後1時、ラスロップ駅についた。15分停車。ここは通常昼食をとるところである。この駅から真東に60キロメートルあまりでヨセミテ渓谷に行けるという。 ストックトンでしばらく停車した。ここはサンフランシスコから約150キロメートル、この平野の中では大きな町である。・・・ 午後6時半、サクラメント市の駅に到着、列車を降りてオリーンズ・ホテルに宿をちょった。サンフランシスコからここまで225キロメートル、海抜は20メートル足らずに過ぎない。 サクラメント市はカルフォルニアの州都であるが、市街はそれほど繁華ではない。人口は18,000人である。サクラメント川は当州の北のオレゴン州との境をなすシエラ・ネヴァダの山々や湖沼の水を集めて730キロメートルを流れ、当市を過ぎてから南流し、サンホアキン川と合流してサンフランシスコ湾に入っている。・・・ 24日 雨・雪 午前3時に列車が出発した。ここからは単線鉄道で、シエラ・ネバダの山脈を越え、ユタ準州の広野を経過してロッキー山地に向かうのである。・・・ サクラメントから80キロメートルほどの行程はまだ平地で、地勢はだんだん高くなり、キューキャッスル駅に着くと、そこはもう海抜330メートル。ブルーマー・カットという高い崖の間の切り通しを走る頃に夜が明けた。これより山々が重なり合っていて、列車の運転はやや難渋するようであった。8時50分、コンファックス駅で朝食。この村の人口は1,000に満たない。ここから山はますます近々と折り重なって迫り、線路の傾斜は、仰いで上るような感じにもなった。景色はたいへん雄大である。このあたりの山々は木がまばらで、岩石があらわであり、松の類いが多い。9時15分にケープ・ホーンの難所にかかった。線路は迂回しながら渓谷をわたり、ところどころに架けられた高い橋によって山から山へとわたって行く。山は層をなして重なり、列車はわずかの間に200メートルも登って、ケープ・ホーンと名付けられた岩峰の下に出た。景色のいいことで知られた地点である。・・・ 10時10分にゴールド・ラン村を通過した。このあたりには、谷川から水を引いて砂金を水披法で採取する樋をほうぼうにかけてある。・・・ダッチ・フラットに着くと、右下の谷に数百戸の人家が見えた。これはすべて採金業者の家である。・・・