龍水御朱印帳

2009/02/01(日)16:44

石ばしる垂水神社

万葉散歩(5)

 石激 垂見之上乃 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨第八巻 雑歌 いわばしる たるみの上のさ蕨の 萌え出づる春になりにけるかも志貴皇子 「岩にしぶきをあげる滝の上に、ワラビの芽が出る春になったのだなあ」 志貴皇子は吉野の盟約にも参加した天智天皇の皇子ですが、皇位継承からは遠い存在でした。しかし歌人としての評価は高く、万葉集にも6首の歌を残しています。中でもこの歌は有名で、万葉集の中でも人気の高い歌なのだそうです。ただし天武系の皇統が途絶え、志貴皇子の皇子が光仁天皇として即位したため薨去後に春日宮御宇天皇として追尊を受けています。田原天皇とも呼ばれています。   垂水神社吹田市垂水町 ■御祭神  豊城入彦命(とよきいりびこのみこと) 神社御由緒によれば、大化改新の頃の干ばつ時この地の勢力者だった阿利真公が千里山の湧水を難波宮に送った功により垂水姓を賜り、垂水神社を創祀したとのこと。御祭神の豊城入彦命は、その阿利真公の祖。古代史ファンの私ですが、この御祭神のことはピンときませんでした。ただ、どこかで聞いたことがある名・・・天照大神の御杖となって宮中を出た豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)を思い出しました。最終的に伊勢にたどり着いたのは豊鍬入姫命のあとを引き継いだ倭姫命ですが、この皇女こそが斎宮の祖と言えるかも知れません。調べてみると、やはり御祭神はその豊鍬入姫命の兄にあたります。崇神天皇の第一皇子ですが、垂仁天皇として皇位を継承したのは第二皇子の活目入彦尊。二人は異母兄弟で、活目尊の母が皇后であったためなのでしょうが、日本書紀にはどちらを跡継ぎにするか崇神天皇が迷った様子が記されています。 「お前達二人の子はどちらも同じように可愛く思う。どちらを後嗣にしたらよいかわからない。それぞれ夢を見なさい。夢で占って決めることにしよう」 「御諸山に登り、東に向かって槍や刀を振った」そんな夢を見た豊城命は東国を治め上毛野君、下毛野君の先祖となり「御諸山に登り、縄を四方に引き渡して粟を食べる雀を追い払った」そんな夢を見た活目尊が皇太子となったのです。理由は弟の夢が「四方に気を配って、稔りを考えた」からだそうです。東国を治めたので、関東には豊城入彦命を祀る神社はけっこうあるようです。    この神社が鎮座する山からは、弥生時代の遺跡が発見されています。垂水神社はおそらく水の神として、古くからの祭祀場だったのかも知れません。奈良時代から平安時代にかけての社格も高く(名神大社)丹生、貴船とともに祈雨の神として信仰を集めていたそうです。   神社の裏は千里ならではの竹藪や、森が広がっています。しかし実は、森が残っているのは神社のある山の南面だけ。この山道は5分も登れば住宅地が広がっています。志貴皇子が詠んだ「垂水」がここのことであったとしても現在はその水脈は枯渇して、残っていません。     現在の「垂水の滝」は、僅かに湧き出る水を落としているだけです。修行やお清めの場ともなっているようで、土足のまま近づくことは禁止されています。 それにしても「いわばしる・・・」の歌は何ともストレートでシンプルでわかりやすい歌ですが短い言葉の中に水ぬるむせせらぎや滝、芽吹くワラビや新緑そして暖かな春の陽にきらきら光る情景が心に浮かびます。 志貴皇子と垂水の地については、次回もう一首ご紹介したいと思います。 万葉散歩No.3 .

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