カテゴリ:短歌
(平成14年歌誌「賀茂短歌」より) 啄木のこと(三) 後藤瑞義
停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく
もう二十年ほど前になりますか、短歌を初めて作り、五首原昇先生に送りました。いま思うとなんとなく啄木のように、いわゆる別ち書きをして送りました。そこで初めて短歌は一行に書くこと、文字を離さず書くことを教えられたのでした。 啄木の歌集を読んでいて、そんなことを思い出しました。啄木の歌集の特色はまずこの三行の別ち書きでありましょう。
あらためて、一行目の「ふるさとの訛なつかし」を読むと、これだけでいろいろの思いが浮んできます。「ふるさと」それも「訛」がなつかしい。なにか机に頬杖をしていろいろ思いを巡らしている啄木の姿が浮んできます。そして、やおら腰をあげて、以前聞いてなつかしかった思い出のある駅の、しかも雑踏の中にわざわざ出掛けて行くのです。訛を聴くために…。 別ち書きをすると、間(ま)が生じ、一行一行に独自の意味合いが自ずと生じるように思われます。逆に一行書きにすると全体がひとつの塊(かたまり)となり、ことばの意味も当然のことに互いに緊密になるように思えます。ですから、一行の方が感情が直接表れるようにも思えます。 「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」と一行書きで読んだ時、まず停車場(駅)の雑踏を思い浮かべました。まさに駅の雑踏のなかで、「ふるさとの訛なつかし」の思いが浮んだように思われました。実際は机に向っていたとしましても…。 原 昇先生もよく内部衝迫を歌にしなさいと教えられました。この内部衝迫を表すのには一行書きが適しているように思うのです。「歌」の語源が「訴ふ」にあるとすれば、なおさらのこと、一行書きのほうが別ち書きよりも叶っているように思えます。 別ち書きをすると一行一行のあいだに、いわゆる詩的ふくらみが増すように思います。ですから、より詩的であり、文学的あるいは芸術的になるのかもしれません。しかしながら、一行書きにみられる直線的な力強さ、ストレートに感情表現が出来る利点が失われようにも思います。そして、これこそが日本古来から連綿と続いているこの短詩型を他のものと区別するものかも知れません。 短歌には文学以前の要素がかなり色濃く反映しており、またそれが第二芸術などと呼ばれた所以かもしれないと思います。 啄木は、短歌を文学に、より詩的にしたかったのかもしれません。しかし、古来よりの短歌の不思議な魔力のようなものには勝てなかったのか、別ち書きを継承しているグループなり結社なりを今のところわたしは知りません。 啄木の歌集を読みながら、別ち書きと一行書きをいまさらのように考えさせられました。 (つづく) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.06.24 07:21:51
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