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今日の気持ちを短歌におよび短歌鑑賞

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2024.04.08
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カテゴリ:俳句

4月8日(月)

現代俳句(抜粋:後藤)(9)

著者:山本健吉(角川書店)

発行:昭和39年5月30日

正岡子規(9)

鶏頭ノマダイトケナキ野分カナ

明治三十四年八月作。

この句は八月の作であるから、鶏頭がまだいとけないのと同様に、野分もまだいとけないのである。「イトケナキ」に「植物の瑞々しさ」を感ずる、同時に子規の心のみずみずしさを感じることができるであろう。子規は自己を没却することによってつかんだ境地である。小主観を棄てることによって、物がはっきり見え、物の形が透明な眼に飛び込んでくるのだ。これが子規の到達した写生の究極なのである。

「仰臥漫録」に載っている句には、一種の特色があります。

あまりくだくだしい技巧をこらさない無造作で、わがままで、こだわらない、淡泊な詠みぶりだ。

髯剃ルヤ上野ノ鐘ノ(かす)ム日ニ

明治三十五年作。

「鐘霞む」古くからの季題。「…春は長閑(のどか)にてかすむと云ふ事也」とある。その月並みの季題に対して、子規は無造作に「髯剃ルヤ」と置いたのである。そこにこの句独特のユーモアが生れたのである。病床の子規にとっては、髯を剃ることは一大事であったであろう。そこで、「髯剃ルヤ」と物々しく「ヤ」をつけたのであり、ありふれた俗語に「や」を置いたことがすでにユーモラスである。それは病間の一日であり、のどかな霞んだ日である。鐘の音まで何となく霞んだように聞こえる日である。「鐘霞む」というと鐘の音まで何か実体を持ったもののように聞え、あたかも煙草の輪のように、その余韻が彼の髯剃るあたりまで押しよせてくるような気がするのである。

                     (つづく)





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最終更新日  2024.04.08 07:18:53
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