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2006.01.26
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島津の話をしたならこの人も出てこないとダメですよね。
前回、前々回と島津の勇猛さを話してきましたがその島津を止めた高橋紹運の話です。
大友家重臣吉弘鑑理の次男で高橋家に養子に入り、剃髪して紹運となっていますがここでは最初から高橋紹運で書いていきます。
九州では戦国時代大きく分ければ薩摩の島津、豊後の大友、肥前龍造寺の時代でした。
この均衡が破れたのは「耳川の戦い」で大友軍が大敗してから…
元々大友家内部では宗麟のキリスト教へののめり込みから家臣団と不協和音が生じていて紹運の嫡子、統虎を養子に迎えた立花道雪も開戦については反対していましたね。
島津義久に叩かれ、有力武将を失い、離反を招き衰退の一途を辿ります。
そんな中、紹運は道雪と叛乱の制圧に東奔西走しますが道雪の死と共に島津は北上を開始します。
これに対し、宗麟は秀吉に援軍を求めますが秀吉はちょうど小牧長久手の戦いの最中で出陣できず、
島津は秀吉が出陣する前に九州を統一し、対抗する思惑でしたので猛然と攻めてきます。
紹運は島津の標的になるであろう岩屋城にあえて入り島津の5万とも言われる大軍に対し兵は1000名に至らない規模で迎え撃ちます。
(岩屋城に入った理由のひとつに立花城にいる実子で道雪の養子となった統虎や宝満城の次男(名前忘れちゃった(^-^;)が攻撃目標にならないようにした、って話があります)
総攻撃を前に降伏を勧告しますが「二君にまみえず、死して武士道をまっとうせん」と拒否、ろう城に入り徹底抗戦します。
そしてこの兵力差で何と約2週間持ちこたえ島津に4000人強の人的被害を与えます。
この戦いの打撃が秀吉の九州攻略を容易にした、と言っても過言でないですね。
わが身に変えて主家と息子を守った紹運、彼が守った息子は立花宗茂となり不敗の名将と呼ばれます。

と、言うことで次回は関が原で西軍につきながら大名として復帰、幕府が唯一寛大な処置をとらざる得なかった大友家重臣2人を父にもつ立花宗茂の話をしたいと思います。
父の仇となった島津義弘との不思議な因縁、徳川との関わりが興味深い人物ですよね♪


☆ここでティータイム☆
何となく本やテレビの感想は書いていましたが歴史を書いたのは久しぶりのような気が…。
昨日まで頭の中=「審査」でいっぱいの満員電車って感じでやっと降車してくれて隙間が出てきたかな♪って感じです。
どうも器用に一度にいろいろなことをこなせないですね~。

今朝はさっそく同僚クンに「ほら♪いいでしょ、いいでしょ」と電話を見せびらかしてました。
心配してた電波もとりあえずは不便を感じないので(一緒に買った三男の方が電波が良い…)良かった、良かった!!
同僚クンはple-plusさん曰く「あの高いヤツ」が欲しいんですって。
これまたple-plusさんのマネして「手帳で電話してるみたいでマヌケだよ♪」なんて言ってました。
女性の手には大きいし高いのでやめましたがやっぱりかっこいいですよね!
しかしキャリアが違うので電話帳をコピペで入力していかなくてはいけないのが大変(T_T)
あと、撮った写真も新携帯へ送ってるので手間ですね~なーんちゃって楽しんでやっているのですが(^-^)v(^-^)v(^-^)v

ライブドアの次はボビーが話題になってますね‥。
うーん(/o\)どういうことなんでしよう??????





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Last updated  2006.01.26 20:10:27
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