震災ボランティアに行ってきました
皆さんこんにちは。6月6日から13日、震災から3ヶ月を迎える宮城県へボランティアとして参加したかえるネットメンバーの手記を紹介します。ボランティアに行くにあたり、何の資格も免許も能力も、そして体力もない私が被災地に行っても何もできないのではないか、逆に迷惑にならないかという心配がありました。しかし、大きく2つの強い思いがあり、ボランティア参加を決めました。1つ目は、震災が起きて以降、連日テレビを通して見る被災地の様子が想像を絶しており、リアルに実感できなくなっていた自分がいたこと。同じ時代に生きる者として、いったい何が起こっているのか現実をとらえたいという強い思いに駆られていました。また2つ目として、私自身、05年にあった西方沖地震の際に家が壊れ、様々助けて頂いたことがあり、今度は私が助ける側になりたい、何か力になりたいという思いがありました。 各種メディアから情報をしっかり得た上で参加したボランティアでしたが、2度行った塩竈、石巻、女川などの被災地の視察では、自分の目を疑い、声を失なってしまいました。基礎を残して、数十メートルも流されている家やアパート。基礎ごと横倒しになった家。折れ曲がった電柱や鉄塔。3階・4階建てのアパートやビルの上に乗っかっている車や船。堤防に乗っかった大型タンカー。建物は無事でしたが、その中で全従業員が津波で亡くなったという銀行。地盤沈下し、今も満潮を迎えると冠水する地域。あたり一面何もなくなってしまった町。そして、言葉では言い表せない匂い(あえて言うなら、被災者が使っていた「海が腐った匂い」)。そこに広がっていたのは非日常でした。しかし、所々に泥にまみれて落ちている生活の跡や被災者の方々の話から、そこが3月11日までは日常だったことを私に認識させ、合わせて地震と津波の脅威に戦慄を覚えずにはいられませんでした。3ヶ月が経っても、やっと瓦礫撤去が終わったばかりという地域もあれば、重機を持った自衛隊しか入れない地域もあり、役所も流され何の見通しすら立たない地域もあるなど、進度は様々でも、復興が終わったところは全くありません。被災者の方々も多少は落ち着き、家の片付けや泥だしなどをやり始めようかという所はまだ少ないようでした。私は福岡から一緒に参加したメンバーとともに、各地にできたボランティアセンターを活用して、要請のあった民家や農家、工場の瓦礫撤去や泥だし、救援物資バザー会場での要望聞きなどを行いました。海から3.5キロの所にあったものの、津波が来て大量のヘドロと魚が残ったイチゴ農園のビニルハウスでは、農家のおじさんのお話をうかがうことができました。「誰もこんなところに津波が来ると思ってなかった。毎日泥を見ると鬱になるんじゃないかと思ってしまう」というおじさんは、これまで1人じゃビニルハウスには手が付けられないと放置していたそうですが「ボランティアが来てくれると聞いて、なら頼んでみようかって気になれたんだ」と語ってくれました。蒸し風呂のビニルハウスの中、海底から押し寄せたヘドロは屋根瓦と同じサイズと硬さにまでなっており、大変重い。流されてきたボラやタイなどが放つ死臭が追い討ちをかけてくる中での作業でした。そこにはイチゴのイの字もありません。塩害被害もあって、美味しいイチゴがいつできるのか分からない中、おじさんはイチゴへのこだわりとともに、「共済に入っているが、対象の被害額27万円のところ、もらえるのは4万円。まだまだ借金もある。機械もやられた。二重ローンは勘弁してほしい。行政は対応が悪いし遅いんだ」など、切々と政治に対しての願いや不満を語ってくれました。また、個人宅の床下や側溝の泥だしは、危険も伴います。こちらに傾いている家を背にしての作業やアスベストも含んでいるであろう粉塵の中での屋内作業など、普段慣れない過酷で地道な作業と見聞きする非日常に、肉体的・精神的な疲れは相当なものとなりました。しかし、今回お会いした東北の方々はとても人懐っこくて、あたたかい方が多く、自ら被災しながらも気丈に振舞われ、一緒に汗を流し作業する姿にこちらが大変励まされる経験が何度もありました。また、ボランティアのビブス(ゼッケン)をしているだけで、通りがかる人からも「ありがとう」「ご苦労さま」と声をかけられ、ボランティア活動も大変喜ばれ、本当にやりがいを感じることができた1週間でした。特に今回の活動の中で、一番やりがいを感じることができたのは、救援物資バザー会場での意見・要望・お困りごと聞きのとりくみでした。被災して営業できなくなったスーパーを会場に行った石巻市のバザーには300人を超える被災者が訪れ、米や野菜の配給や炊き出し、全国から届いた救援物資の日用品バザーなど、大変喜ばれるとりくみとなったと思います。 受付に並ぶ被災者に「困っていることはないですか」と声をかけていくと、そこでは多くの被災者から、どこにもぶつけることのできない“やるせない思い”や“何とかしてほしい思い”が、これでもかという程ぶつけられたことは忘れることはできません。「津波は2階まで来たんですよ。2階の天井を壊して屋根に逃げ出したから助かったんだ。9人家族のうち、3人しか生き残らなかっ――」とつかみかかってくるかの様に話す青年。「何をするにもやっぱり金。義捐金はいったいどうなってるんか」と苛立つおじいちゃん。「避難所はプライバシーがなってなくて嫌だから、壊れた家の2階に住んでいるけど、避難所にしか救援物資は届かない。足が悪いから簡単に外に出れないのよ」と訴えてくるおばあちゃん。「ベビーカーがなくて本当に困っているんです」「せめて避難所に1個でいいからドライヤーを配ってほしい」「うちの側溝の泥だしに来てほしい」などの要望を話す方々。中には「これまで民主党に(選挙で)いれてきたけど、政権争いや菅降ろしとかやってる場合か。もういれない」「国会議員がみんな来てボランティアやったり私たちの声を直接聞いたらいいんだ」という、政治に対しての不満も多く語られました。当初私は、被災地の人間じゃないし救済制度もそこまで知らない中で、本当に被災者の願いに答えることができるんだろうかという迷いがありました。しかし、被災者からはたくさんの思いが語られ、ボランティアは話を聞くだけでも、相手にとっては大きいこと。寄り添って聞くとりくみは大事だと実感しました。今回のボランティア活動を通して、私がやったことは復興のためのほんのわずかなことだけど、被災者の大事な一歩を励ますことにつながったと考えています。しかし、「仮設住宅が抽選だから地域のコミュニティーを壊された」「海の人間が山の仮設に住めって言われても。特に年寄りはどうしようもない」などの声もありましたが、今どのように復興していくか、どんな町にしていくかは残念ながら机上で、財界・大企業と、宮城県民の声を聞かずに消費税増税も提言している村井県知事らが進めています。今回、被災者が主人公で、被災者の思いに寄り添い、被災者の復興を支える立場でボランティアにとりくむことを大事にしたように、その姿勢が政治にも求められていると実感しました。復興は、人の力と政治の力が一緒になって進めないといけないと思います。6月12日の宮城のローカル番組では、気仙沼市で有効求人倍率が0.16倍と報道していました。寄せられた声にも「津波で工場がなくなって、首切り。首切られてもおかしくない歳だけどね」「仕事がなくて、この子たちを食べさせていけるか不安です」とあきらめも含めて語られた雇用への不安。お隣の岩手県では緊急雇用対策として、ボランティアがやるような瓦礫の撤去などに県がお金を出すと言います。あたたかい政治の力が求められています。今回の震災は大変残念なことではありましたが、これからどんな日本社会を作っていくのかを国民1人ひとりに問う大事な機会になったようにも思えます。原発事故という人災もまた、利潤第一の電力会社の姿を浮き彫りにし、エネルギー政策の転換を叫ぶ声が上がり始めています。これから被災地が復興するまで数年、いや数十年かかると思います。本当に長期でのボランティア支援が求められています。私はこの福岡で報告会を無数に開催し、被災地の状況と被災者の思いを伝え、一緒に復興を支えていく仲間を広げていく決意です。合わせて、これからどんな日本社会をつくっていくのか、おおいに青年の中で考え、議論していきたいです。最後に、「地震がなければ、とてもいいとこなんだけどねぇ」という観光名所・松島での現地の方の言葉、「ぜひ、復興の証を皆さんにお見せしたい」というイチゴ農園のおじさんの言葉が忘れられません。ボランティアとしてもそうですが、復興した宮城にぜひ行きたい気持ちでいっぱいです。