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テーマ:坂本龍馬と海援隊(339)
カテゴリ:龍馬暗殺の謎
渡辺篤は、天保十四年(1843年)十二月十八日、二条城番組与力:渡辺時之進の長男として二条城番組屋敷内で生まれています。幼名一郎、26歳鱗三郎と改名、28歳で一郎に戻り30歳で篤と改名しています。
13歳より大野応之助義章に入門し円明流、その後西岡是心流を学び18歳で免許を受けています。 その後弓術、馬術、槍術、柔術、砲術、速火火縄筒、西洋流練兵、太鼓まで習っています。 元治元年(1864年)9月2日、22歳の時に京都文武場剣術世話心得になり、慶応3年(1867年)2月5日に見廻組御雇を仰せつけられることになります。 この当時は25歳、「渡辺一郎」と名乗っていた彼は、4月1日「肝煎介」となり、8月25日には「見廻組肝煎」ととんとん拍子に出世していることがわかります。 同年11月11日に「新遊撃隊」に所属して、23日に「見廻組」に戻ったことになっていますが、龍馬暗殺事件はこの間の「11月15日」に起こっています。これも一種の工作かもしれません・・・。 さて、彼が「龍馬を暗殺した」という内容を記録したのは、大正4年(1915年)8月5日の「大阪朝日新聞」に発表されたものが初めてではありません。 実は、明治33年に「近畿評論」で今井信郎の実歴談が公表される以前に、彼は殺害の記録を残しているのです。 (続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年05月21日 22時45分06秒
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