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テーマ:坂本龍馬と海援隊(339)
カテゴリ:龍馬暗殺の謎
「渡辺家由緒歴代系図履歴書-摘書」 で、これが書かれた日付は「明治44年(1911年)8月19日」です。ただ、これが書かれる11年前の明治33年(1900年)「近畿評論」で今井信郎の「実歴談」が発表されていたため、「渡辺は今井の証言を見て、まねてこのような文章を書いたのではないか?」と疑われる事があります。 しかし、「摘書」の冒頭には以下の様な文章があります。 「此書別ニ巻物ニ認有之候得共認メ洩レ之廉々有之ニ付改テ相記候也」 ようするに、この「摘書」には原本とも言うべき巻物が存在するのです。 それが龍馬暗殺から十三年後、当時38歳の渡辺篤が、明治13年(1880年)6月25日付で書いた「履歴書原本」がそれです。 この中では、 「同年十一月土藩坂本良馬ナル者潜ニ徳川将軍ヲクツガエサント計ル者ニテ連累諸方ニ多々アル故佐々木只三郎(ならびに)拙者始外五名申合セ夕京ヨリ右良馬旅宿江急踏入候処五六名憤慨ノ士居合軽ク相戦ヒ首尾克悉ク討果シ候也右旅宿ハ河原町三条下ル三四丁目西側醤油屋ノ二階ニ居テ才谷梅太郎ト俗名ヲ唱潜居イタシ候也」 とあり、 1 佐々木只三郎、渡辺篤(一郎)他5名で暗殺した。 2 5,6名の「憤慨の士」がいたが、軽く戦って討ち果たした。 3 良(龍)馬は「才谷梅太郎」なのって、醤油屋の二階に住んでいた。 などが読み取れます。 しかも、これは近畿評論で今井の「実歴談」が発表される20年も前に書かれたことであり、明治3年(1871年)に今井が刑部省で行った部外秘の証言以来の見廻組が龍馬暗殺の犯人であると記録した文章と言うことになります。 「兵部省・刑部省口書」は、以前にも書いたとおり「部外秘」扱いですから渡辺篤がその内容を知ることはなかったはずです。そうなると、今井が自白した事実を知らないまま渡辺が書き留めた可能性が大きいと考えられます。 ただ、ここに書かれているのは簡単ないきさつだけです。この後の明治44年の「渡辺家由緒歴代系図履歴書-摘書」には、より詳細に龍馬を襲撃した際の様子が記述されることになるのです。 (続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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