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カテゴリ:川越街道てくてくトボトボ歩き旅
住宅街のポツン・・・
こういう神社の境内の広場が昭和40年代には子どもたちのカッコウの遊び場だった。 公民館があり,そこでそろばんや習字の教室なども開かれ,火の見櫓があって,なんやかやと人が寄り集まってくる場所が,村の中に確実にあった。 ポンポン菓子や田楽やわらび餅などを自転車やリヤカーに積んでやって来るオジサンやおばさんがいて,楽しみで仕方なかった。 「あぁ~・・・みんなどこへ行ってもたんやぁ~・・・⁉」 2013年6月28日・金曜日 曇りのち晴れ JR両毛線高崎線京浜東北線武蔵野線と乗り換えて・・・ JR武蔵野線の車内にはエキストラのように座っている人たち・・・ JR武蔵野線新座駅北口交差点へ“パシャッ!” 11時ちょうどである。 この辺は大和田宿だ。 住宅街だけど,田畑も多く,民家も古い大きな家がたくさんある。 茅葺にトタンを覆った家屋が珍しくないほど建っている。 子どもの頃,私もそういう家で暮らしていた。雨漏りもひどく,梅雨や台風の季節は大変だった。風呂はあったけど古すぎて機能できず,近所の祖父母の家へ入りに行っていた。 その風呂もゲス板を踏んではいる五右衛門風呂だった。夕方になると,薪割りをしている祖父を手伝ったり,火の番をしたりしていた。まぁ邪魔していただけだっただろうけど・・・。 遠い時間が今もここにはあるような気がした。あの家でもこの家でも,今尚,そういうことがやられているのかもしれない・・・と思うと羨ましくなってきた。 歩き出してすぐ右手に鬼鹿毛の馬頭観音さんが佇んでおられる。 元禄9年(1696),秩父の小栗さんが,愛馬鬼鹿毛に騎乗し道を急いでここ大和田宿に入った所で鬼鹿毛が木の根っこに躓きすっ転んでしまったそうな。しかし健気にすぐ立ち上がり,主を乗せて江戸まで頑張って走って行ったそうな。で,用が済んだ主がさて帰ろう・・・と鬼鹿毛を繋いだところに戻って来たが,鬼鹿毛の姿がどこにもない。はてはて???と思いつつも,トボトボと家路に向かって歩いて行くと,来るとき鬼鹿毛がすっ転んだところにやって来た。 「!!」 な・な・なんと・・・鬼鹿毛が死んで横たわっているではないか! 「これはこれは・・・」 主は思った鬼鹿毛はさっき転んだ時に,実はもう死んでしまっていたのだ。けれどワシの急用にそれでは相ならん,と立ち上がり,亡霊になってワシを江戸まで・・・。 この話に村人たちが感心し,ここに馬頭観音さんを建立したのだそうだ。 ・・・・・・ 主人を置いてトットと帰ろうとした鬼鹿毛が同じ穴にすっ転んで・・・というような話では決してないのだ!!! てくてくトボトボ・・・スッ転ばないように行きましょう・・・ 自動販売機にボーイスカウト募集の広告がデザインとして描かれていた。最近はポスターなんかじゃないんだね。 小学校2年生から私はカブスカウトに入り,野外活動やボランティア活動などをやった。なかなか貴重な体験だったと思う。イベントの仕事で何とか見過ぎ世過ぎしている根幹に,そういうのは宿っているのだろうか。いい歳こいて,てくてくトボトボ日本縦断歩き旅なんて・・・三つ子の何とかが影響しているのだろうか。 旧道というより,ほとんど生活道路といった方がいい道である。 県道109号線としての機能の方が大きいようだ。 車や自転車の往来は当然で,路地から出てくる不意の乗用車,いきなりコンビニに入ってくる無神経な軽トラやライトバン方向指示器を点滅させないから,どう行くのかまったく読めない。 スマホや携帯片手に,というのは当たり前で,漫画本をハンドルの上に置いて運転している輩もいる。 何度もそういう無神経アホクソ運転手の車に轢かれそうになるのを躱してきた体験から,交通モラルの劣化激しいこの国の現状は・・・・・・・今日もなんだか高ぶっている私なのだ 享保13年(1728)の石造地蔵菩薩立像と天明2年(1782)の庚申塔があった。 郵便局の所を通り過ぎてしまった後,ふと戻ってみると観音堂だった。 (2020年の今・・・この建物に張られているポスターは,「このハ~ゲ~・・・」で世間を騒がした代議士の笑顔である・・・ここが選挙区だったのね) 入り組んだ道を進む。 アウトドア生活者の人が数人いた。 ・・・ということはなんとかこのあたりでは暮らせるということのようなのだけど・・・。 旧道に合流し,歩道橋からの眺めを楽しんでいると, 「!!」 なんちゅうデカい家だ!・・・農家,というより豪農だなぁ~・・・。 修理品お持込歓迎・・・ 「あのぉ~私そのものを・・・」 と言いたくなるくらい最近はボケボケなんですよ。 柳瀬川を渡って国道254号線に入る。 英橋の下には,アウトドアライフのホームレスの人たちが何人かいた。 ・・・スクラップセンターがあるためなのかなぁ~・・・ 急勾配の石段を上がると“富士塚”があった。 「三国第一山」と刻まれている。 県道直進化の改良工事のため,山の部分が削り取られてしまったのだそうだ。 その隣に跡見学園女子大学があった。 「埼玉県の新座にキャンパスがあったのかぁ,勝手に東京のどっかにあると思っていたなぁ・・・」 資料館入口という信号の所に大きな碑が建っていた。 川越街道碑・・・上り車線がもともとの旧道のようだ。私はずっと下り車線の歩道を歩いていた。 てくてくトボトボ・・・知らない街を・・・ 蕎麦畑が広がっていた! 木宮稲荷神社は寛文元年(1661)建立。 静かな佇まいの境内だった。 しばらく行くと広源寺という大きなお寺があった。 寛永16年(1639)創建だ。普通仁王像は仁王門の中にいるものだけど,本殿の前でこんな具合に構えられると,お参りするにも気になってしょうがない。 藤久保という地域だ。 「!!」 またまたでかい家! 藤久保の交差点を過ぎたところの庚申塔があった。 シャッターを切った瞬間,バイクを引いたオジサンが立っていた。 「なんで!?」 オジサンが去ったあと,“パシャッ!” 松並木が街道っぽさを演出してくれているような道が続き,大井宿に入る。 下木戸跡の案内碑がぽつんと立っていた。 大井橋の表示があった所を過ぎた左に弁天の森⁉が広がる 枇杷が実っていた・・・珍しいなとシャッターを切る。 左手に徳性寺があり,元寇の時のことが記されている弘安4年(1281)の板石塔婆や明和4年(1767)の石造地蔵菩薩立像がある。 本陣跡の案内柱が人家の庭先であったろうと思われるところに立っていた。 大井バスセンター ・・・??こんなところに⁉駐車場もないようやけど・・・⁉ 「!!」 と思ったら,お風呂かいなぁ~・・・。 今はなぜか仮店舗で営業しているみたいだけど・・・⁉ 上木戸跡の案内柱は見逃してしまいそうだった。 旧大井村役場の建物は,国指定有形文化財だそうだ。 しかし立ち入り禁止にしておく手はないと思う。 旧道は左へ・・・このあたりに一里塚があったようだ。 暑くなってきましたねぇ~・・・熱中症には気をつけなければ! 享保2年(1802)の角の常夜灯 「大山 武蔵の地蔵 ところさわ 道」 左手に地蔵院が見えてくる。正和3年(1314)開基という。 本殿の前には樹齢約350年の枝垂れ桜が・・・(覗いてるけどオッサン何見とんねん!?) 無憂樹の木もあって,お釈迦様がこの木の下で生まれたという説明があった。 254号に合流する左手に,亀窪村神明神社がある。 天明12年(1841)の手水鉢と力石 富士山信仰はラーメンにまで及んでいるのか!? いわゆる次郎系だな。 馬頭観音堂のイチョウが何やらいい感じですなぁ~・・・。 歩道橋の五差路を左へ・・・ ここは“六道の辻”という交差点。でも五差路だけど・・・ 右へ逃げると上福岡駅に行けるのだけど,左手の鶴ヶ岡八幡宮をブラブラして,向かいの芝開観音さんを覗いたりして,思案しながら休憩した。そしたら,旧道が先の方へ延びて行く流れが,まるで川のようだなぁ~・・・と思って眺めていたら,ついその川に入りたくなって,歩いて行った・・・ 鶴ヶ岡八幡宮は鶴ヶ丘村の鎮守さん。 芝開観音さんは元禄7年(1694)の建立。 「いもせんべい本家新井」の前に藤馬中宿と書かれた碑があった。 立派に手入れされた藤の木にしばし目が和む。 東光寺の幼稚園には,お迎えのママパパが屯していた。 今ここでこうしていることが,人生の時・・・という表情が良かった 開明地蔵大菩薩が左手に建っていた。 この近くに団子屋さんがあって,街道界隈にあった刑場で罪人を処刑する時,最後にその団子を食べさせてやったというのだ。憐れみか,それともこの世への名残りをもう一度噛みしめさせる罰なのか・・・処刑後生首を晒していた・・・と頃に村人がお地蔵さんを建てたそうだけど・・・建てるよなぁ~。 最後の団子はどうやろ・・・!? 公園で一休み・・・でおます 高階中学の道を上って行くと,民家の門があって, 「!?」 天保2年(1831)の馬頭観音様がいらっしゃった! 枝と枝が絡み合ってどうなってんのやろ 不老川を渡って行くと,長田寺(ちょうでんじ)があった。門前のイチョウが立派 享保15年(1730)の銘が入った石造地蔵菩薩立像や宝暦5年(1755)の宝篋印塔などがある。 烏頭坂を上れば小江戸川越である 熊野神社の静かな佇まいは休憩するのにちょうどよかった。 熊野神社の前の歩道橋の上から振り返る。烏頭坂を見返り坂,と呼びたくなるほどだ。 浅間神社にブラリと寄って,謂れなどを読んでみる。 “占肩の鹿見塚”のことをはじめて知った。鹿の肩を焼いてする占いとはどういうものなのだろう この社殿の裏側に,パワースポットがある 小江戸川越七福神の毘沙門天を祀っている妙善寺がある。 菅原神社の大木は頼もしかった。 左の正殿が新しいのは2009年2月3日に放火されて全焼してしまったからだ。 もう川越の街の中である! 終着点まであとちょっとなのだけど,今日はこれから7限の「企業論」の講義に出るつもりなので, “パシャッ!” 本日はここ,三番町交差点まで・・・とする。 5時間それでも歩いていた 川越駅にてもう一枚 暑かったのよねぇ~ 4時1分の新木場行きに乗って,大宮駅へ・・・そして南与野駅に行って・・・ キャンパスまで・・・てくてくトボトボ・・・ 先生の声の響きが,5時間歩いて疲れた体に心地良く響き出して・・・いかん・・・いかん・・・ 「仕事と学問と部活の三立は大変なのだ」 と言いながらの満喫度もまた大変なのだ <2013年7月1日・月曜日・記の紀行文に,2020年4月17日・金曜日・写真などのアレンジをして記> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020.04.21 20:26:00
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