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カテゴリ:山陽道てくてくトボトボ歩き旅
吉備津神社の松並木も山陽道!
旭川畔に佇む岡山城も良いのだけど,黒くて烏城などと呼ばれている城の風情は,白鷺城の真っ白いお城を日々見ていた私の眼には,どうもなぁ~・・・という気がしてしまうのだ。 こればっかりはしょうがない・・・全国どこに行っても城を見ると, 「・・・う~ん」 ついつい首を捻ってしまう習性なのだ・・・ 2010年7月9日・金曜日 上道からさてどこまで行けるだろう・・・ JR上道駅を降りて,北へ入る・・・10時30分まぁまぁの時刻に到着で来た のんびりした道が伸びる街道風景だ 鉄と書いて,くろがね,と読む地区に入る。 安国寺経塔の由来が書かれた案内板と石碑が建っていた。 案内板を読むと,経塔の文字に干時十年(1624)に下村住九介作,とある。 西暦1624年は,寛永か元和が年号だけど・・・どういうことやろ 藤井宿に入る・・・ 幕末,岡山城下を通らずこっちへ・・・⇒・・・意外にその方が旅人は楽だったかもしれない。 岡山城下へ行こうとしている人にとっては迷惑だっただろうけどね 総社八幡宮の入り口にこの案内板があった。 文化9年(1812)の常夜灯と天保4年(1833)の鳥居の下にある。 東本陣角屋があり,西本陣安井家があり,JR東岡山駅を右に見ながら進んで行くと,岡山長岡郵便局があって,そのポストの横に,明治38年(1905)建立の道しるべが建っている。 「長岡駅👈👉西大寺観音 道四国 秩父西国阪京」(⁉) と読める。 百間川を原尾島橋で渡る。 作家内田百閒は,ここからペンネームを取ったらしい。百閒は,門の中にだけどね・・・ 橋を渡って左へ折れ,旧道を道なりに進むと相生橋に着く・・・ 天満屋のマークが燦然と・・・岡山の町によく似合う・・・ 森下町に入ったところに惣門跡の案内板があり,天正元年(1573)に宇喜多直家が設けたことが記されている。 相生橋から烏城を眺める まるでお城の堀のように,旭川が流れている・・・ 真っ白なお城を見慣れているのだけど,黒いお城も風格がある 月見橋を渡ったところに後楽園がある。32・3年前に行ったことがある。従兄に案内されて,チャリで市内を走ったことだけは覚えている・・・ 旭川を渡る市電は京橋の上を走る・・・ そのたもと近くに明治25年(1892)建立の迷子しるべ石がある。 「切ないねぇ~どこへ我が子が行ってしまったのか、と捜す親の心境たるや・・・」 商店街も賑やかだ 後ろの女の子と同じように休憩・・・ 郵便局前の交差点を右折柳川の交差点を渡って左折すぐの細い道を右折ローソンが右角に見えたら左折岩田町の交差点でJRとぶつかり左折 駅前で,桃太郎と待ち合わせ 「ヤツはどこにいるんだ・・・⁉」 「まったく待ち合わせ時間になっても・・・」 視線をずらしやがれ・・・ 「鳩まで子分にしたんやなぁ~・・・」 「あっ⁉」 「よう馴染んどるわぁ~」 「頭の上に乗っかってるのと左肩の上の鳩は動きますんじゃ・・・」 「さよか・・・」 駅中を抜けて,石井小学校を左手に見ながら,信号を渡り二股を右に進んで行くと下伊福の信号で,国道53号線と合流する・・・ 関西高校と書いてかんぜいと読む学校の前を右へ進んで行くここで国道は180号線に変わる 巌井富山の信号を左へ行くのが旧道なのだけど、180号線をまっすぐ道なりに行ってしまい,平津橋をちょっと行ったところのファミレスで食事をした時,地図で確かめたら間違っていたことに気づいた しかしもうこのすぐ先,矢板大橋の所で合流することになるから, 「もうえぇわぁ~・・・」 とうどんを勢いよく啜り上げるのだった・・・ 吉備津彦神社参道の道標があり,踏切を越えて行くことになる・・・かなり足にきている ひと息入れて,180号線に戻り,真金の一里塚跡を右に見て進み,参道から吉備津神社へ向かう 吉備津神社の参道には下校の小学生の声が響いていた・・・ 15時30分を過ぎた・・・切上げるにはいい時刻だ JR吉備線吉備津駅に到着・・・“パシャッ!” 7時間くらい街道をブラブラしていたのだ・・・道も間違えたし,左足の親指の付け根がジクジク痛む・・・ロックポートの靴はなかなか履き心地が良いのだけど,歩き方がイカンのだな <2010年7月9日(金)の旅日記に写真を編集し,若干のアレンジをして,2020年5月28日(木)に記> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020.06.03 06:54:06
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