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明日は41歳の誕生日
バカボンのパパと同じ年になります。 それだというのに可愛い奥さんとも子宝とも無縁の荒野を幽鬼のように彷徨っているのみです。最近は仕事も夕方には一日にこなした仕事の内容を忘れているという危機的状況です。 未来を良くしてゆくはずの経験の蓄積が全然なされていないのです。 もともと年中行事や「二度と取り戻せない時間」の概念が欠落しているらしく、例えば卒業のお別れで泣き滅ぶ人たちの気持ちなどを理解できないままでいます。未だに理解できないのです。「また連絡を取れば逢うことは出来るじゃない」と、小さな頃から思っているので一期一会がどれだけかけがえのないことなのかサッパリ分からないのです。 だから一日の時間を大切にしていません。 だから一年間にどれだけ進歩しようか、一年後にどれだけ変化しようかのビジョンを確立できません。「今年の目標を書き出しなさい」と社長に言われた時『確約が出来ないので何かを達成できたらご報告します』と返したので、以後社長はそういう目標立てのイベントをやめてしまいました。 一年後のこの日は昨年と変わらないでいればそれがいいとさえ思ってしまいます。 再生YMOの曲で 「眠りたくもない/起きていたくもない/働きたくもない/愛したくもない」とつぶやく曲がありましたが、『何でこんなに的確にオレの気分を歌ってるんだろう』と思いゾッとしたことがありました。 同じようなトシの普通の人間なら経験して当たり前の人生イベントをクリアする意欲もついぞ湧き上がってきません。振り返ってみれば声に出して「詰まんねぇ人生だな」と呻いてしまいそうですが、毎日のサイクルの中で、その詰まんなさをどうにか解消しよう・人生を楽しもうなどと頭を働かせる事は全然無いのです。日々の労働と収穫もない休みの日が交互にやってくるのみで、過ぎ去った時間の量を振り返ってみたときにだけ、その量を嘆くだけなのです。 肉体はさすがに時間の痕跡を増やしつつありますが、それが焦りにも何もならないのです。 ただ朽ちて行くのが分かるだけなのです。 この先自分が何をしているか全然分かりません。 両親が死別しても、または死別するまでに何をするといいのかが分かりません。 虫の幼虫でさえも延々と食らって大きくなる事は子孫を残すためだというのを分かっているというのに 今、自分がここにいる理由や生きている(死んでいない)理由が全然分からないし、生きる意志も全然沸いてこないのです。 親は必死になって人生の楽しい部分を示そうとしていますが、どこで落としてきたのか、普通の人間の言う「人生の楽しみ」がまるで別次元の産物にしか感じられません。 それにその親の姿を思い出しても、人生を楽しんでるようにはとても思えませんでした。 もともとどこか壊れていた子供によくない見本がついたせいで、こうも虚ろな出来損ないが発生するのだから、 親は人生を楽しんでいる様をよく見せ、子供はどこか壊れていないか・壊れていたならそれを早いうちに自覚するようにしないと 私のように半死人になってしまいますよ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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