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テーマ:介護・看護・喪失(5316)
カテゴリ:午後の紅茶
自分の青春時代を聞かれると、どうも口を濁してしまう。
恋人は誘いはあったけど、ことわってしまって、今でも後悔の気持ちが捨てきれないし。 デブでモテない男子校の生徒なのに、勇気出して誘ってくれた女子高の子の好意を拒否してしまったから。 もちろん大学受験の目前だったということもあるが。 隠しているわけじゃないんだが。 言う必要がなければ言わないし、言いたくないこともあるものだ。 一番の問題は祖母の介護の問題だった。 介護に休みの日はなかった。 どこにもいけない。 祖母に呼び出されると、すぐ枕元に行かねばならないから。 高校三年生の夏休み、車イスで散歩する程度に穏やかだった祖母の痴呆が、秋になって一変した。 暴力的になった。寝床でのたうちまわる。すべてを拒否する。 私のことを「誰だ」といい、「乱暴するな」と非難する。 絶望した。 しかし冬休みになると、ますます大変になった介護の作業は私に一任されてしまった。 つきっきりの介護。 その苦しみは言葉にならない。 祖母が他人だったらと何度も思ったが、祖母なのだ。 変わりはてた別人の祖母を見るだけで、見るたびに絶望とショックが増した。 介護保険や介護センターがない時代は、このように家族がすべての介護を背負っていたのだ。 正月になって、夏の盆休み以来、顔を見せなかった親戚たちが祖母に会いに来たが、祖母の状態に驚き、私を激しく非難した。 実際に祖母は私のことを他人扱いし、いつも乱暴すると非難していたから。 私は反論しなかった。 親戚たちは祖母を拉致して、自分たちで介護することを勝手に取り決めた。 静かな正月になった。 数ヶ月して祖母は遺体で帰宅した。 骸骨のように骨と皮だけの姿。大腿の太さがひとにぎりぐらいに痩せ萎れていた。 手足はテープで縛られたままだった。 親戚たちは介護の現実に直面すると、数日もせずにお互いにタライ回して、祖母を移動させたあげく、老人施設に入れてしまったらしい。 祖母はそこで手足を縛られ、ゆっくりと餓死していったのであろう。 マザー・テレサのところにいったとき、同じように餓死寸前で死んでいく人々をたくさん見たが、祖母のことを思うと勇気がわいた。 介護の人生経験は貴重だが、もし介護センターがなかったら現役世代はみんな破綻していたであろう。 祖母の死が幸福でなかったとするならば、日本の高齢者介護制度は違う視点が必要なのではないかと悩みつづけている。 結論はない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.11.13 10:20:26
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