ぼくのエライ人
同僚と話していて指摘されたのだが、オイラはたまたま話題にのぼった見たことも会ったこともない人のことを、その肩書きや経歴だけを聞いただけでやたらと「エライですね」と評価することがしばしばあるらしい。たとえば先日同僚が「ミシガン大学の法科を出てニューヨークのローファーム(大手弁護士事務所)に勤務している」という日本人の友人の話に触れたとき、オイラは開口一番「すごい友達ですね」と言った。過去には別の同僚が「電力会社の取締役をしている親族」に言及したときにもたしかに「偉いですね」といった感想を述べた。同僚の指摘が、肩書きだけ聞いて人を偉いだのなんだの評価するオイラの偏見ひいては劣等感を暗に笑うものであることは言うまでもないのが、それはさておき、オイラにはたしかに(ある意味偏見に満ちた)そういった「偉い人基準」が存在することは疑う余地がない。実際、前述の同僚の親はそれぞれ首都圏の「校長先生」「中小企業社長」であることから、地方都市のサラリーマンの子弟であるオイラとは明らかに「“偉い人”感覚」に先天的な開きがあるようだが、それでもオイラの「偉い人基準」というのは「地方出身の(元)優等生(とくに男)」がある程度共有している価値観であると思っている。ちなみにオイラの偏見に満ちた「偉い人」の序列は、だいたい以下のような感じである(カッコ内はオイラの描くその人物像)。大蔵省官僚(万能型の秀才。生まれたときから何やらせても一番)>外務省官僚または通産省官僚課長レベル以上(ただし天下りせず、将来は故郷に帰って県知事)>最高裁裁判官(法律ひと筋、一生冗談抜き)>ノーベル賞レベルの科学者・研究者(ただし理工系に限る)>朝日新聞または日経新聞記者あるいはNHK記者/アナウンサー(社会のための滅私奉公)>国連や世銀の役付の人…以上が「偉い人」上位のイメージである。「大手銀行の頭取」とか「有名メーカーの社長」とか「政治家」や「大臣」なんて、オイラのイメージでは「偉い人」上位には入らない。また、同じ新聞社でも「読売新聞」ではダメで(笑)、TV局も民放ではいけない。同じ官僚でも「建設省」ではぜんぜんダメだし、文系のノーベル賞候補ではあまり偉くない。こうしてみると、オイラの価値観ではあくまで「清く正しく」「儲けを度外視し」「表に出ず」「国家や人類のために尽くす」というところが“偉さ”の基準であることがわかる(笑)。これはまさに「地方の優等生」の一般的な価値観ではなかろうか。…しかも、どれも圧倒的に「東大法学部卒」や「京大工学部卒」が前提となりそうな肩書きばかりである(笑)。ちなみに、前述の序列をさらに続けると、だいたい以下のような感じになる。…>弁護士(とくに国際法>刑法>民放>商法)>医者(やっぱり外科医>内科医>整形外科医でしょう)>大学教授(ただし英語論文を発表し本を出してるような人)>国会議員>…どうもオイラの中には「会社(民間)」<「公共機関」「大学」「個人」といった価値観があるらしい。「年収1億の会社社長」と聞いてもぜんぜんエライと思わないが、「『ネイチャー』に論文が掲載された年収400万円の助教授」と聞くときっと「エライ」と思ってしまう(笑)ところで、以上は「自分が逆立ちしてもとても無理」な世界の“表向きの序列”であり、これとは別に“裏の序列”もあったりする。それはたいだい以下のとおりである。伝説のパンク・ロッカー(20代でドラッグODで死亡または自殺)>冒険家(植村直己レベル)>モダン・アーチスト(スキャンダラスな作品で『Art Forum』や『BT』に紹介されるようなな人)>芥川賞作家…うーん、こうして並べてみると、裏の序列もまた「地方出身の優等生」の道からドロップアウトした後のオイラの彷徨の遍歴をそのまま並べたようで情けない(笑)。こちらの価値観も同僚に笑われることは必至であろう。いずれにしても今日の日記は自分の社会観がいかに子供じみているかが分かってよかったよかった。