『ハムレット』 わたしの翻訳台本について。
『ハムレット』の翻訳台本を作成するにあたり、これまでに「第一フォリオ」版は読んでいましたので、まずそれを基に訳してゆきました。ともかく、『ハムレット』は翻訳が多いです。参考にできてありがたい代わりに、それらと少しでも違いを出したいと思いますから、厄介です。一番の問題になるのが、あまりにも有名な第3幕第1場の「第三独白」です。これは言葉の問題だけですみませんから。"To be, or not to be:That is the question." さて、これをどう訳しましょう。この台詞の日本最初の翻訳として知られているのが、明治期に横浜で駐留している外国人向けに出されていた新聞「ザ・ジャパン・パンチ」(『パンチ』誌という名称からして、風刺精神が盛られた新聞のようです)に掲載された、「アリマス、アリマセン、アレハナンデスカ」というものです。なるほど、間違ってはいませんわたしが最も優れていると考えている坪内逍遥訳では、「世に在る、世に在らぬ、それが疑問じゃ」となっています。歌舞伎調です。これも信頼している福田恒存訳では「生か死か、それが疑問だ」と、とても簡潔で、力強さを感じます。岩波文庫では、古い市河三喜・松浦嘉一訳では「生きるか、死ぬるか、それが問題なのだ」新しい野島秀勝訳では「生きるか、死ぬか、それが問題だ」とあります。最近の優れた翻訳者、松岡和子は「生きてとどまるか、消えてなくなるか、それが問題だ」としています。これらのすべてに共通するのは、"to be" を「生きる」、"not to be" を「死ぬ(生きない)」と理解していることです。"be" は「存在する」を表す動詞ですから、「(この世に)存在している、生きている」と考えるのは妥当です。またこの言葉の後に "To die, to sleep: No more" という台詞が出てきます。「死ぬ。それは結局、眠ること。それだけだ」ということです。死ぬという言葉が出てきますから、やはりここで彼は、「生死」について考えをめぐらせているのではないか。彼を「哲学的な憂愁の貴公子」とする見方が、支えられることになってきます。そのイメージが好まれるからか、日本では昔からこの台詞を、「生きるべきか、死すべきか、それが問題だ」と言い習わしてきました。この訳は実際にはどの翻訳本にも載っていないと、手柄顔して最近、自分の訳に使って出版した方がいらっしゃいますが、あれだけ流布している言い回しを自分の手柄にするのは、はしたないですね。それに、出版されていないだけで、舞台やTVドラマなどで使われていたかもしれません。つまり言いたいことは、この台詞の "to be" を「生きる」と理解するのが定着していたということです。しかし、70年代のシェイクスピア劇上演に大きな影響を与えた小田島雄志訳は、「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ」としました。この訳は、"to be" を「この世にいる=生きる」ことではなく、「現在の状況に居る」という意味にとらえたものだ、と解釈することです。復讐を誓いながら、行動に出ることができていない。怒りを抱いているはずなのに、その感情に率直に流されて行かない。そういう自分に対する疑問、叱責と考えることができます。これは新しい解釈です。これによって、ハムレットは行動に向かおうとしている人間になってきます。この言葉に続く部分も、「怒り狂う運命がおれに浴びせかけている、矢玉の嵐を堪え忍んでゆくか、それとも武器をとって、押し寄せる困難の海に立ち向かって決着をつけるか」と、「行動」をほのめかす言葉になっています。わたしは大体において、小田島訳シェイクスピアには懐疑的なのですが、この翻訳には、なるほどと思いました。それでわたしの訳では、「今のままでいるか、いないか。それが難しいところだ」としました。これ以外にも、人の口になじんだ多くの名文句があります。それらは、これまで多く出版されている翻訳を参考に、口に出しやすい言葉になるように訳しました。翻訳を上演台本に改める際には、およそ4割の長さになるまで刈り込みました。by 神澤和明