●毎日読もう
昨日の今年初めての祈り会で、Iさんが、「今年は聖書を2回通読したい」と言っていた。昨年はいろんな本(信仰書)を読みすぎて、かえって混乱してしまったのだという。それでは本末転倒なので、原点である聖書の言葉に帰らなくては…ということなのだ。私も若い頃に何度かしたが、どれくらいかかってだったか思い出せない。気がつくとこの頃はずっと、つまみ食いのようにあちこち読んでいる。聖書は分厚い本なので、通読と言うのは非常に高い山に思われる。一年で一回通読するために一日4章と言われる。「通読2回だったら、1日8章よね!」と言うと、Iさんは、「私読むのは全然苦にならないから、 まず、一気に読んじゃおうと思うの。」…と言う。そう言えばそうよね。宮辺みゆきのミステリーだったら分厚くても、1日2日で一気に読んじゃうわけだし、(最近読んでいないけれど)量的に言えば、そんなに苦にならないはず?聖書を読むことを、読書することと区別していたかも…。 あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろうに。あなたの子孫は砂のように、あなたの身から出る者は、真砂のようになるであろうに。その名は私の前から断たれることも、滅ぼされることもないであろうに。」旧約聖書イザヤ書48章17~19節 "耳を傾けること"が求められているのだ。その前に非常に厳しい言葉もあった。だから今、これを聞け。楽しみにふけり、安心して住んでいる女。心の中で、『わたしだけは特別だ。わたしはやもめにはならないし、子を失うことも知らなくて済もう。』と言う者よ。子を失うことと、やもめになること、この二つが一日のうちに、またたく間にあなたに来る。あなたがどんなに多く呪術を行なっても、どんなに強く呪文を唱えても、これらは突然、あなたを見舞う。旧約聖書イザヤ書47章8~9節子を失うことと、やもめになること(夫を失うこと)、…それは私の最も恐れることであり、忌み嫌うことである。私には起こり得ない、ってどこかで思っている。だから毎日安穏と生きている。それらを忌み嫌うほどに、私は自分の罪を憎んでいるだろうか?主の前に清くいるために、御言葉に頼っているだろうか?全てのものは主から与えられたものであり、与えたものを取り去る権威も、このお方は持っている。それくらいの緊張をもって、主を恐れるべきなのだ。今年のうちに一度とか二度とか決めず、とにかく通読しよう。そう思った。昨日歯医者の待ち時間に、創世記1章と2章3節までを読んだ。今日も読み進もう。