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鴎座俳句会&松田ひろむの広場

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稲200603

季語探訪―稲(春)       松田ひろむ

この「季語探訪」ではこれまで食にかかわる季語を取り上げてきましたが、日本人の主食である稲(米)については、これまであえて触れてきませんでした。稲作は日本人の歳時の中心であり、極端に言えば歳時記とは稲の歳時記ともいえるものです。それだけに、稲に関する季語は膨大で、その背景も厚いものです。
春田(春の田・げんげ田・花田)から苗代(苗田・苗代田・種案山子・苗代時・苗代寒)・畦焼(畦焼く・畦火)・耕す(春耕・耕牛・耕馬)・田打(春田打・田を打つ・田を返す・田を鋤く)・畦塗(畔塗・塗畦)・種選(種選り)・種浸し(種井・種俵・種池)などなど春だけでも、稲作に関係する季語は数え切れないほどです。
稲と米はどう違うでしょうか。あまりにも身近にあるだけに、考えもしなかったことですが、稲の種子の外皮(籾殻)を取り去ったものが米です。
さらには稲荷・稲光(稲妻)など、稲は食にとどまらない生活の背景があり、豊かな言葉の広がりを持っています。その稲を育てる水田つまり「田」は地名にも苗字にもなっています。
その一つ一つを探訪すれば、それだけで何年もかかってしまうでしょう。
ここでは稲と日本人との関わりについて、概観するにとどめます。
稲作の始まり
稲作(いなさく)は、イネ(稲)を栽培することです。
主に主食のコメを得るため、世界各地域で稲作は行われています。現在では、米生産の約九〇%はアジアです。稲の栽培は水田や畑が利用され、それぞれの環境や需要にあった稲の品種が使われています。水田では水稲(すいとう)、畑地では陸稲(りくとう・おかぼ)とよばれる稲を使用しますが、両者に生物学的な区別はありません。 また田畑に直に種もみを蒔く直播(じかまき)栽培と、仕立てた苗を水田に植え替える苗代(なわしろ)栽培があります。
収穫後の稲からは、米、糠、籾殻、藁がとれます。
稲作の起源
稲作の起源は中国の雲南省ではないかといわれていましたが、最近の考古学的調査によって長江中流域にある江西省や湖南省で一万年以上前に遡る稲籾が発見されており、古いものは一二〇〇〇年前に遡るといわれています。これらは焼畑による陸稲栽培と考えられています。また長江下流の浙江省寧波の河姆渡(かぼと)村から約七千年前の水田耕作遺物が発見されており、稲の水田耕作は長江下流にはじまると考えられるようになりました。
日本の稲作
日本における稲作の歴史は弥生時代に始まるとされてきました。しかし、近年になって縄文後期に属する南溝手遺跡の土器片中からプラント・オパール(植物の細胞組織に充填する非結晶含水珪酸体 (SiO2.nH2O) の総称。シダ植物、コケ植物、イネ科植物の葉部、特に表皮細胞、樹木類の維管細胞と表皮細胞など珪素の集積しやすい箇所に形成されます。イネ科植物を中心に、一部の種については、形状により種を特定することが可能であり、古環境を推定する手段として利用されます。)が発見されたことにより、約三千五百年前から陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていることが判明しています。また朝寝鼻貝塚の六千年前の地層からイネプラントオパールが発見されたことによって、縄文時代前期にまで遡れるとする説もあります。
また、水稲である温帯ジャポニカについても縄文晩期には導入されていたことも判明しつつあります。さらに近年の炭素十四年代測定法により弥生時代の始まりが、これまでの紀元前五世紀から少なくとも紀元前九世紀まで遡る可能性が出てきました。朝鮮半島よりも早期に稲作が行われていたことを示すデータとして注目されます。
日本への稲作の伝来
稲の伝来に関して、以下の説があります。
遼東半島から朝鮮半島南部を経て北九州に伝来(朝鮮ルート)。
長江下流域から直接北九州に伝来(対馬暖流ルート)。
江南から西南諸島を経て南九州へ(黒潮ルート)。
かつては朝鮮ルートが有力視されていましたが、近年の遺伝子考古学によって大陸からの直接伝来ルートが時間的には早かったことが有力視されつつあります。日本、朝鮮、中国に現存する稲の遺伝子を調べたところ、日本に存在する稲は大きく二種類にわけられ、そのうちのひとつが朝鮮半島には存在しないものであったためです。(静岡大学農学部佐藤洋一郎助教授の研究による)。これらの説により、現在もっとも有力な伝来ルートとして中国、山東省付近が挙げられています。
また、江南からの黒潮ルートは縄文時代の熱帯ジャポニカの伝来ルートとして有力視されています。
稲作の方式
二期作と二毛作
二期作とは、一年の間に二回稲作を行なうこと。減反政策などで行われなくなりましたが、二〇〇四年頃から四国地方で復活しています。
二毛作とは、稲作の終了後、小麦など、他の食料を生産することです。
水田稲作と陸稲
稲の水耕栽培を水田稲作と呼ぶびます。田に水を張り(水田)、その水の中に苗を植えて育てます。日本では、種(種籾)から苗までは土で育てる方が一般的ですが、東南アジアなどでは、水田の中に種籾をばら撒く地域もあります。
種から収穫まで、陸ですべて終えるよりも、水耕が収穫率が高いため、定期的な雨量のある日本では、ほとんどの場合、水田を使っています。
逆に、水田を使わない稲作を特に陸稲(おかぼ)と呼び、区別します。
稲作の手順 (古来からの伝統的な方法)
田の土を砕いて緑肥などを鋤き込む(田起こし)
圃場を整え田植えに備える(代掻き)
苗代(なわしろ)に稲の種(種籾をまき、発芽させる。(籾撒き)
苗代にてある程度育った稲を田(圃場)に移植する。(田植え)
定期的な雑草取り、肥料散布等を行なう。
稲が実ったら刈り取る。(稲刈り)
天日干しで乾燥させる。
脱穀を行なう。(籾=もみにする)
籾摺りを行なう。(玄米にする)
精米を行なう。(白米にする)
稲作の手順 (最近の一般的な方法)
まず、苗箱に稲の種、種籾(たねもみ)をまき、育苗器で発芽させる。
次に、ビニールハウスに移して、ある程度まで大きく育てる。
育った稲を、田植え機(手押し又は乗用)で、田に移植する。(田植え)
定期的な雑草取り、農薬散布、肥料散布等を行なう。(専用の機械を使う)
稲が実ったら稲刈りと脱穀を同時に行うコンバインで刈り取る。(稲刈り)
通風型の乾燥機で乾燥する。(含水率十五%前後に仕上げるのが普通)
籾摺りを行なう。(玄米)
精米機にかける。(白米)
ジャポニカ米とインディカ米
アジアで栽培されている稲は、長粒種のインディカ米、大粒種のジャバニカ米、短粒種のジャポニカ米に分類されます。タイ米に代表される、インディカ米は、気温の高い所で主に栽培され、世界のお米の八〇%以上の生産量を誇ります。粘り気が少ないためピラフやカレー、炒飯などに向いています。
日本型のイネとも言われるジャポニカ米は、日本や朝鮮半島、中国やオーストラリアの北部で栽培されており、世界のお米の生産量の一五%未満です。
アジアの米以外にアフリカ米もあります。
黒米・赤米・香り米
黒米や赤米は、米が日本に伝わってきた当時の遺伝子や野生種の遺伝子を現代まで伝承してきた米です。これらの米は、果皮(もみ殻)や種皮(糠層)に色素を持ち、玄米の色により黒米(紫黒米)・赤米・緑米と呼ばれています。
黒米とは、玄米の色が黒ないしは紫色をした米のことで、紫黒米、紫米とも呼ばれています。黒米の色は、果皮や種皮の部分に含まれる紫黒系色素(アントシアン)によるもので、胚乳部分は通常の米と同様に白色をしています。このため、完全に精白すると特有の色が薄れてしまいます。精白米に対して五%程度を加えて炊くと、ご飯全体がうす紫色に色づいて炊きあがります。
赤米とは、玄米の色が赤褐色の米で、果皮や種皮の部分に赤色系色素(タンニン)を含んでいます。黒米と同様に胚乳部分には色素がないため、糠を全て取り除くと白米になります。
緑米は、種皮の部分にクロロフィルが含まれており、玄米の状態では淡い緑色をしているのでこう呼ばれますが、もみ殻は黒っぽい色をしています。胚乳部分は白色をしています。緑米のなかには独特の香りを持つものがあり、香り米と呼ばれることもあります。
これらの米は、明治以降、一般の農家では作られなくなり、岡山県総社の国司神社、対馬の多久頭魂神社、種子島の宝満神社などで神事のなかで栽培され伝承されてきました
白米とは
イネは最も外側に表皮があり、表皮の下に中果皮(ここが果物等では果肉になる場所)横細胞、管間細胞があります。これらを合わせて果皮と言います。果皮のさらに下には種子があり、種子は胚乳と胚そしてそれらを包み込む種皮により成り立っています。これら表皮、果皮、種子をあわせて玄米といいます。白米はこの玄米から表皮、果皮、種子の最外層である種皮、胚乳中の最も外側の部分である湖粉層が精米により除去されたものです。(「米WEB」より)

季語としての稲―春の部
春の田・春田(げんげ田・花田)
まだ苗を植えない前の田のことです。田打ちや、鋤かれている田も含めます。かつてはげんげ(紫雲英)が植えられていました。紫雲英は一般的には蓮華(草)とも呼ばれています。季語として登録されたのは新しく、手元の資料では昭和八年の『俳諧歳時記』(改造社)が最初です。
春田・春の田
春の田へすゝむで行くや山の水       梅室
雷去りし春田の畦の薬缶かな(ホトトギス) 呂仙
おんばしら茅野の春田に綱曳けり  下田  稔
みちのくの伊達の郡の春田かな   富安 風生
隠岐の島の段々春田海に落つ    加藤 楸邨
 *葛城の神の鏡の春田かな      松本たかし
許されし水狂奔す春の田を     相馬 遷子
啄木忌春田へ灯す君らの寮     古沢 太穂
春田のなかしきりに勇気勇気といふ 飯島 晴子
げんげ田(紫雲英田) げんげ・げんげん・五形(げげ)花・蓮華草
中国から渡来してきた越年草。刈田に撒き、春になって田に鋤きこんで緑肥とします。
[五形(げげ)] 『通俗志』(享保元)『靨』(安永六)『田ごとの日』(寛政一〇)などに三月として所出。(角川書店『図説俳句大歳時記』)
なぜか影との対比が目立ちます。明暗でしょうか、注意しないと付き過ぎということになります。
おほらかに山臥す紫雲英田の牛も  石田 波郷
げんげ田といふほどもなく渚かな  田中 裕明
げんげ田に泣く弟を姉が抱く    太田 土男
げんげ田の鋤かるる匂ひ遠くまで 阿部みどり女
げんげ田に峡に弥勒の影うまる   荒木 青踏
げんげ田に仰臥良寛かもしれず   柴田 奈美
げんげ田に新妻おけば夕日匂う   赤城さかえ
げんげ田に息ひそめたる子を捜す  岡原美智子
げんげ田に乳房拡げて牛憩ふ    高橋 悦男
*狡る休みせし吾をげんげ田に許す  津田 清子
頭悪き日やげんげ田に牛暴れ 西東 三鬼
これから、げんげ田を鋤くはずの耕牛なのだが、どうしたわけかなかなか言うことを聞かない。あまつさえ農夫を振り回したりもしている。そんな「暴れ牛」を鬱々とした気分で見ている三鬼、ああ俺も頭の悪い日なのだ、牛といっしょに暴れたい。美しいげんげ田を思いっきり踏みにじってみたいと思っていたのでしょう。赤紫のげんげのと牛の黒という色彩が背景にあります。同じ三鬼の
露人ワシコフ叫びて石榴打ち落とす
とも共通する思い。ボヘミアン三鬼の失意の日々です。

花田(はなだ)
 げんげ田のことです。源義の例句は「花田」よりも「燕来る」が季語になっています。せっかくのいい語感の季語ですので、実作が待たれます。
陸尻の花田明りや燕来る      角川 源義
耕す 春耕・耕人・耕馬・耕牛
種を蒔く前に田畑の土を鋤いたり、鍬で打ってやわらかくすること。『嵐亭誹話』(文化三年)では「耕 雑、勿論なり。また春にも用ゆべし」とあって、単独の季語としては古くはありません。語源的には「田返す」で、田のことです。重労働でしたが、それも耕耘機の発達で様変わりしました。
北国では刈り取りの後、雪の下に年を越え、雪解けを待って鋤き返されます。暖かい地方では刈り取り後は裏作として麦などが植えられ、その収穫を待って耕されます。
実作では、遺跡、墓など古いものとの取り合わせ、また西行などとの取り合わせも目立ちます。耕して天にいたる類型も多いものです。農でない他人の眼も気になります。
耕すや鳥さえ啼かぬ山かげに       蕪村
たがやしやいづこ道ある谷の底      召波
千年の昔のごとく耕せり      富安 風生
耕すや伝説の地を少しづつ     京極 杞陽
*耕せばうごき憩へばしづかな土   中村草田男
耕す―歌人
西行のうた懐に耕せり       原  裕
西行の寺をうしろに耕せり  佐川 広治赤人の富士を仰ぎて耕せり  大串  章
啄木の歌少し知り耕せり  太田 土男耕す―墓
遠き祖の墳墓のほとり耕しぬ   前田 普羅
家墓の際まで耕し黒くせり  関森 勝夫
折れし墓碑倒れし墓碑や耕しぬ  日原  傳
 耕す―遺跡・古墳
耕すやむかし右京の土の艶      太祇
深く耕して夢殿みちに沿ふ  田中 菅子
崇ある塚とてふれず耕せり  福田 蓼汀
ひもすがら耕す漢の都あと   荒井 正隆
お天道さまにご奉公とて耕すや   佐野 美智
その上は雲の通ひ路耕せり   水口 郁子
遠目には耕しの鍬遅きかな     福永 鳴風
眼光をふっと消しまた耕せる    鈴木 鷹夫
気の遠くなるまで生きて耕して   永田耕一郎
耕してある日ころりと子を産めり   川村 悠太
耕してひと日言葉を忘じをり   佐藤 国夫
耕して耕して父母消えにけり   清水 志郎
耕すやこころ解していくやうに   柴田 奈美
耕せば耕すほどに村廃れ 小林 呼渓
耕せば土にめがありはらわたあり   奥山甲子男
人も馬も斜めに立ちて耕せり   日原  傳
男鹿の荒波黒きは耕す男の眼   金子 兜太
宙に鍬ひかる耕しの深からむ   中戸川朝人
天近し祈りのごとく耕せば   黒鳥 一司
天上のやうに耕しはじめたる   松澤  昭
田返し
  かへす田やよそにも牛を呵る声      嘯山田鋤き
  鋤きし田の凹みの水に曇ひく    原田 種茅
田打 
ざくざくと雪かき交ぜて田打哉     一茶
野の梅の咲よりかよふ田打かな     青蘿
* 生きかはり死にかはりして打つ田かな 
村上 鬼城
親の親も子の子もかくて田打かな   安東橡面坊
墓山の墓の見下ろす田打かな   阿部 子峡
ふるさとの憶えは田打姿のみ  皆吉 爽雨
風さきを花びらはしる田打かな   山上樹実雄
流れ来し雲の中なる田打かな   白井 爽風
春田打つ 
田打ちだけで春ですので「春田打」は重複感があります。ただし「春」という語感が明るい感じを与えます。自身の体験、体感の句はほとんどありません。
クルス下げ天草娘春田打つ     景山 筍吉
たてよこの畦よみがへる春田打ち  木内 怜子
とびの輪の祷りのごとし春田打   穂苅富美子
ゆく雲の北は会津や春田打     岡本  眸
枯色のまゝの春田を打ちはじむ   清崎 敏郎
五湖のうち二つが見える春田打つ  猿橋統流子
春田打つかそかな音の海士郡    加藤 楸邨
春田打つ鶴女房の村はづれ     有馬 朗人
春田打午後は菩薩のうしろにゐ   中島 畦雨
春田打菩薩の山の暮るるまで    池田まつ子
尼寺の隣の春田打たれけり     星野麥丘人
明日は師と逢はむ春田も起し終へ  影島 智子
春田鋤く
倶利伽羅の路深く鋤く春田かな 大橋越央子
舟で来て春田一枚鋤きゆけり     岩崎 健一
春耕
春耕の鍬の柄長し吉野人 細川 加賀
春耕の振り向けば父消ゆるかな  小澤 克己
春耕の田や少年も個の数に  飯田 龍太
春耕の土均らされて隣り合ふ  高久田橙子
筑波嶺を見る春耕の鍬立てて    和井田なを
耕人 
耕人に傾き咲けり山ざくら   大串  章
耕人に余呉の汀の照り昃り  長谷川久々子
耕人の遠くをりさらに遠くをり   不破  博
耕人の鋤き込んでゆく光かな   工藤 眞一
耕馬・耕牛
泥田十重八十重耕牛尾で遊ぶ    野沢 節子
耕牛に就いて或は身を反らし   高野 素十
耕牛の四肢のうちなる没日かな  那須 乙郎
耕牛の谷を隔てて高く居る   高浜 虚子
耕牛やどこかかならず日本海  加藤 楸邨
荒東風を頭押しに島の耕牛は  橋本 榮治
つゆくさの瑠璃はみこぼす耕馬かな 西島 麦南
遠く赤く耕馬尾をふる真菰風  秋元不死男
古墳出て耕人耕馬玲瓏と  野見山朱鳥
朝ひらき人と耕馬の髪みどり  秋元不死男
地のかぎり耕人耕馬放たれし  相馬 遷子
 耕耘機 耕運機
 エンジンで動く耕作機械です。「耕す」だけで春の季語ですので、耕耘機も春の季語。しかしまだ定着していません。それも春だけでなくなった農の耕作を反映しているでしょう。
見えざるも耕耘機行き返す音   右城 暮石
耕耘機遠きは空を耕すや   辻田 克巳
うすけむり吐き不機嫌の耕耘機   辻田 克巳
春耕や時に咳き入る耕耘機   高木淳之介
米を中心とした戦後の農業政策
終戦を迎えた日本はまず食糧の確保におかれ、同時に地主・小作制度が日本全体の民主化を妨げるものだとして農地改革(農地解放)が実施されました。農地解放により自作農となった農民は生産意欲を高め増産に汗を流しました。農地拡大のための開拓も行われました。食糧管理法によって米は、強制供出―配給という流通形態をとり、その裏ではヤミ米が流通しました。このころの米穀通帳(一九四一年から一九八一年まで)・外食券・外米なども忘れられた言葉となりました。
一九六〇(昭和三五)年、「もはや戦後ではない」とした『経済白書』が出されました。経済の自立と成長がすすめられ経済成長率は一〇%の大台に乗り、GNP(国民総生産額)はアメリカにつぐ世界第二位の規模にまで達しました。
農政も近代化の名のもとに全国で灌漑や排水路の整備、圃場の拡大を含む区画整理・整備や農道の舗装などがすすめられ、この生産基盤整備と機械化で農業労働は大幅に軽減されました。
こうして耕耘機、田植え機、コンバインの普及で早乙女による田植、手刈りの刈入れが消えてゆきました。
農家は、機械化や設備化の推進で購入負担が増し、経済的に圧迫されて「機械化貧乏」という状況になり、息子や娘たちを高学歴社会や企業社会に送り出すと、農家は、ただひたすら高齢化の一途を辿っていくようになりました。
稲作では「逆ザヤ」という米価算定方式(政府は生産者から米を高く買って、消費者に安く売る方式をとった)では、稲作が最も条件的に安定、有利になっていることから、稲作を拡大選択する農家や地域が多くなりました。
さらに道路網の整備やモータリゼーションが浸透していくと、農家自らも他産業への在宅通勤が可能になりました。どこかに勤務する傍ら自分の農地で時間的に拘束されることが比較的少ない稲作をやっていく、いわゆる兼業農家が増え、他産業との所得格差の是正が実現されてゆきました。農政が意図する以上に稲作の単作化が進むと、米は生産過剰気味になり、米の生産量が伸びていく一方で、日本人の食生活の変化もあって一気に米消費が減少してゆきました。「逆ザヤ」は過剰米でさらに増していき、それを抑止するため自主流通米制度の導入と、「米の生産調整」いわゆる「減反政策」が一九六九年より開始されました。休耕田のはじまりです。
この減反政策の結果、農家の生産意欲が失われ、縄文時代よりの水田が放棄され、日本の原風景が失われ自然環境が変化しました。生態系にも影響を与え、伝統ある農業文化が失われることになりました。(参照「News Drift」他)
休耕田春来る水の音ひびく     町田 敏子
休耕田たんぽぽの黄の渦なせり   水原 春郎
野火投げて休耕田を覚ましけり  美柑みつはる
就中休耕田の草紅葉        塩川 祐子
枯草のがんじがらめよ休耕田    太田 土男


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