世に一等の流あり
世に一等の流(やから)有り 悠悠として木頭に似たり 語を出すも知解(ちげ)無く 云うらくは我れ百(なべ)て憂えずと 道を問えば道を解せず 仏を問えば仏も求めず 子細に推尋すれば 悠然として一場の愁 (「寒山詩」より)つまり、「心源湛寂」の処を悟りの境と思って、それを信受し、死守し、悠悠と生きているのは、亡者だということだ。所謂「見性」を持たないものを云う。道を問えば、道のことは知らないというし、仏を問えば、仏を求めずという類だろう。古典が、段々遠のくようでは文化の衰退だ。より深く学ぶことは、より理解することではないか。聖書でも、仏教でも何でも関心をもって研究すべきだろう,と思う。表面的なことで済ましてしまうから、いつまでもショートしてしまう。どれも全部が正しいのではない。正しいものを集めればいいのではないか。異教徒として知ろうとしないのは、限界でしかない。堂々と議論すればいいのだ。論理を尽すべきだ。少し、フットワークが悪くなっている。ああだこうだではなく、気楽にぶらりと出かけるくらいが好い。そうすれば、思いがけないものがあったりする。