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2004年06月02日
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2本の映画を見た。一つは『CASSHERN』。もう一つは『パッション』。

『CASSHERN』は、ご存知の方も多いと思うが、昔のアニメ新造人間「キャシャーン」の実写版である。

新造細胞による人間臓器の開発を目指す、軍の研究所で、予期せぬ新造人間が生まれた。(偶然か?必然か?)
人間たちは、それを抹殺しようとした。

同時に、(新造人間の生みの親である)東博士の息子「鉄也」が、人間同士の大戦で戦死した。
悲しみから、その死を受け入れることの出来なかった父、東博士の手によって「新造人間」として生まれ変わる。

そして、無差別に仲間を殺され、生き延びた「新造人間」たちは、「憎しみ」から、人間を抹殺するため、辿り着いた未開の地で、王国をつくり上げる。
救済神「キャシャーン」は、迷いながらも、愛するものを守るため、戦う。

『パッション』は新約聖書の4つの福音書を基にして作られた、救世主イエス・キリストが、ユダヤの大祭司に捕らえられ、十字架に磔をされ、殉教するまでを描いた物語である。

どちらも衝撃的な映画だった。

そして、どちらもテーマは「愛と憎しみ」。どちらも、意味深い映画だった。

だが、2つの似たテーマを持つ映画を見終わって、私には真理が見えなくなった。
とくに2つ目の『パッション』を観た後に。

『CASSHERN』

映画に込められたメッセージは、とても共感しやすいものだった。

人間の、欲望という名のエゴにより「戦い」は始まり、そして「憎しみ」を生む。
そして、「憎しみ」が「憎しみ」を生み、「戦い」は繰り返される。

「戦い」を終わらせ、人類を救う道は、「憎しみ」を失くすことでしか、有り得ない。
「憎しみ」を失くすには、「憎しみ」を抱く存在を消すこと、そうでなければ「互いに許しあう」以外にない。

それを悟った「キャシャーン」は、「互いに許しあう」ことに望みをたくし、愛する「ルナ」と共に自らの存在を消した。(のだと思う。)

さらに言えば、「憎しみ」は「愛」から生まれる。
「愛」するものを殺された故に、奪った者への「憎しみ」が生まれるのだ。

そして、新造人間とロボットの王国を築き上げた、新造人間「ブライ」は自分たちを殺そうとしたことにより、「人間」を憎み、敵としていた。

しかし、最期の瞬間に、自分たち「新造人間」の真実を知る。
実は、「新造人間」たちは、(新造細胞から臓器を作り出す)研究の成果が上がらなかった為に、遺体をバラバラにされた、戦争で殺された「人間」だったのだ。

「人間」を敵視し、憎んでいた自らの存在が、実は「人間」だった。
「ブライ」は空虚を見、そして死んでいった。

「人間」という存在の、「愚かさ」の象徴なのだろうか・・・。

私は、この映画で「真理」を見たように思った。

平和なここ日本では、普段、日常で理解することのない、終わることのない「憎しみ」。
それが今も続く「戦争」の源なんだと。

しかもそれは、人間にとって、かけがえのない「愛」を抱くことによって、生まれたものだということ。
そして、「人間」とは「愚かな」存在だということ。

だからこそ、この「憎しみ」の連鎖から抜け出すには、「憎しみ」をもつ存在(=人間)を消すしかないように思える。
それを逃れる方法は、「互いを許しあうこと」なんだと。
それがこの世の中の戦争を失くす、たった一つの方法なんだと。

だが、『パッション』で観て、私はまた、分からなくなった。
果たして、人間は「許せる」存在たりえるのか、と。

救世主「イエス・キリスト」は、自分を苦難の道(苦痛と死)へと導いた、全ての存在(残忍に鞭打ちの刑を執行したローマ兵・十字架への磔を求めた大祭司カイファ)のために、最期まで祈り続ける。

死や苦痛への「怖れ」を感じながら、大いなる存在、父である「神」の意志に従い、惨刑を受け入れるイエス。
愛する息子の惨状を、目の前にしながら、運命を受け入れるマリア。

イエスは最期まで、「憎しみは持たぬよう。隣人を愛しなさい。許しなさい。」と言い続けた。

だが、あまりに残虐な映像を前に、私は迷った。

本当に、イエスは「許せた」のだろうか。自分を鞭打ち、釘で十字架に磔をするローマ兵を「愛する」ことができたのだろうか。
マリアは、目の前で、愛する息子に残虐の限りを尽くすローマ兵に、少しでも憎しみを感じることはなかったのだろうか。

イエスは最期まで祈った。だがしかし、それは本当の「許し」なのだろうか。

「神の意志」を信ずる、自らの使命感からではなかったのだろうか。
「許す」ことを「使命」だと感じたのなら、それは「使命」を感じたのであって、心からの「許し」ではないような気がする。
もちろんこれは、あくまで、人間の浅い私の感覚ではあるが。

そして、イエスの死の瞬間、稲妻が走り、大地が震え裂けたのは、神の「怒り」なのではないだろうか?
自分の息子「イエス」に苦痛を与え、死に至らしめた「人間」たちへの「憎しみ」を感じた故の「怒り」なのではないのか?

宗教に疎いため、私には分からない部分が多かったのは確かである。

だが、少なくとも、私は、それほどには罪深い人間とは思っていない。
その私は、これが我が身なら、マリアなら、「許す」ことなどとてもできない。

人間は、「存在」することそのものが「罪」を産んでいるのかもしれない。
だが、その人間を造ったのは、神ではないのか?
人間が、戦争を生む「欲望」や、戦いの連鎖を起こす「憎しみ」を持つのも、神がそのように創りたもうたのではないのか?

神は間違った、ということにも感じる私は、罰当たりであろう。
だが、少なくとも人間同士が「許しあう」ことは不可能に思える。

また、イエスの使命にも、疑問を感じる。
イエスは超越した存在だった。使命を全うすることを成し得た。
「許し」たのだと思う。

だがしかし、イエスの信者である、圧倒的大多数の人間は、それが出来たのだろうか。
イエスを慕う故に、ローマ兵に「憎しみ」を感じることはなかったのだろうか。

つまり、何がいいたいかと言うと、
「イエスの使命が、新たな憎しみを生む」ことにはならなかったのか、ということである。
それが、今の宗教戦争の源となってはいないのか?

イエスは、逃れることもできたのである。それを自ら、拒むことはせず、従った。

つまり、「選択」したのである。その「選択」は、必要だったのか。
その「選択」でしか、神の意志に従うことはできなかったのか。
その「選択」故に、ローマ兵や、大司祭・ローマ総督は、罪を犯すことになったのではないか。
それ以前に、「罪」を犯していたとしても。

私には分からないことだらけである。

『真理が見えない』。

話はそれるが、イエスが受けた「鞭打ち」や「十字架の磔」などの残忍な行為を、当時の人間は(少なくとも一部の人間は)、苦痛を感じることなく執行し、喜びを感じていた。
それを平然と直視し、興奮する市民がいた。

人間がそこまで残酷になれる、その理由は何なのだろう。
戦争行為は理解できる。強くあらねば、自らが死ぬことを受け入れなければならないからだ。
自らを守るための、防衛本能だ。

だが、刑の執行は明らかに違う。
現代の日本で、これほどの残虐行為を平然と執行できる、あるいは直視できる人間は、それほど多くはないように思える。
(映像でさえ、目をそむける人も少なくはなかったと思う。私も観たのを後悔したほど・・・。)
「馴れ」がそうさせるのだろうか。

また、理由は何であれ、現代人がそういった感覚を持たないでいられるということは、今の世の中はまだ、まともだということなのか。
それは、やはりイエスが、全ての人間の罪を背負いたもうた、故なのだろうか。

しかし、その一方、犯罪の残虐化・低年齢化も叫ばれている。
分からない。いったいどこに「真実」があるのか。

P.S. どなたか、浅い私を導いてくださいませ。よろしくお願い致します♪

もし、観ていらっしゃらない方が見えましたら、是非、ごらんになってくださいませ。
ストーリーが分かってても、かなり、衝撃を受けますよ。





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最終更新日  2004年06月11日 01時19分33秒
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