お詫びする、ということ。
誰かが、誰かに「お詫び」をするとき、正しい「形」はないにしろ、そこには「相手に謝りたい。そして自分に何ができるか考えたい」という想いが、心の底に流れているべきではないか?と思う。ある人(仮にAさん)から、「お詫びを言いたいので、Bさんと話がしたいのです」との申し出があった。「Bさんの連絡先がわからないので、自分の携帯番号を教えて、電話をしてもらって欲しい」ということだった。私はBさんに連絡をとり、電話をして欲しいというAさんの伝言を伝えた。するとBさんは「私の連絡先を教えてもらって構いませんので、Bさんから電話をしてもらうように伝えてください」との返事をされた。そして、その旨Aさんに伝えた訳だけれど、あからさまに、Aさんは不機嫌な声になった。「私から電話するんですか?」「私は善意で言っているんですけど、相手の方には伝わってますかね?」と。もう、わけわからん状態の私。善意だから、何なんだろう。自分から電話することに、何の不都合があるんだろう。そもそも、お詫びを言いたいと思っている人が自分から連絡をすることに、そんなに憤るものなんだろうか。今回のことで言えば、私もお詫びをすべき側の人間なので偉そうなことは何も言えないのだけれど、それでも、やはり「何か違う」と思った。この違和感とこの不快感。どうしてなんだろう、と考えて思ったのはAさんがしたかったのは「お詫び」ではなく「言い訳」ではないか、と感じたからかもしれない、ということ。自分の面子や立場を守るための「お詫び」は、居心地の悪さを生む。「いや、そんなお詫びなんていいんです」と言うしかないような最初から答えが決まっているような「お詫び」はするべきではないと思う。それは、ただの自己満足だと、思う。こうして人のことだと簡単に言えるのだけれどもしかして、私にもそういうところがないだろうか。何か「あの人に、○○したい」と思ったときにはその気持ちの根っこにある「本当の自分の気持ち」をきちんと見つめてから、相手に伝えるようにしようと思う。そんなことを思った、やや不機嫌な今日。