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カテゴリ:歴史人物
復本 一郎(俳文学者) 琴線に触れた「大志」
俊鋭極めた筆鋒 正岡子規の文学的姿勢を「日蓮主義」と呼んだのは、子規の愛弟子・赤木格堂であった。子規の言葉「文学上の論争に於いては一片の私情を交ゆべきでない。氷よりも冷やかに進撃せねばならぬ」を紹介しつつ、その姿勢を「文学上の主張に反する敵に対しては一歩も仮借せず、其筆鋒俊鋭を極めたものであった」と回顧している(『子規夜話』)。 これが格道呼ぶところの「日蓮主義」である。格道は、歌俳両分野にすぐれ、一時は子規の後継者に目された人物。備前(岡山県)出身。子規より12歳年少。一方、格堂と同年の子規門下の歌人、淡路(兵庫県)出身の和田不可得は、子規生前に「大人は日蓮上人を非常に好まるゝ」と語り、その性格を「日蓮上人に近似して居る」と指摘したのだった(『根岸庵を訪ふ』)。 子規と日蓮との具体的なかかわりは、明治28年(1895年)、日清戦争の従軍後病体を神戸病院、須磨保養院で養い、同年8月20日に須磨保養院を退院して一カ月程の間にあったようである。明治28年9月18日付の「日本新聞」に載せた短文「日蓮」(養痾雑記の一部)の末尾に左のごとく記されている。
余、須磨の海楼に病を養ふこと一月、体力衰耗して勇気無し。偶々日蓮記を読んで壮快措く能はず。覚えず手舞ひ足踊るに至る。日蓮を作る。
重患後、気力喪失していた子規を鼓舞し、感動させたのが『日蓮記』であったことが明かされている貴重な文言である。『日蓮記』を詠むことによって、件の短文「日蓮」が生まれたとも記している。それのみならず、同年、子規は草稿本「病餘漫吟」の中に「日蓮年譜」を掲出し、日蓮の事跡、生涯が瞬時に確認し得るように手当てしているのである。
(つづく)
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Last updated
October 9, 2013 06:54:44 AM
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