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カテゴリ:歴史人物
作家 高橋直樹 戦国武将の実像を探るのは意外に難しい。『黒田家譜』というのがある。官兵衛(如水)を始祖とする黒田藩でまとめられた。いわば藩公認の書物だ。しかし藩公認だからこそ、官兵衛の実像が伝わらないのだ。 この書物の著者は貝原益軒という儒学者の黒田藩士である。つまり益軒は藩の御用学者だ。だからそこに記された官兵衛は、聖人君子のごとき姿とならざるを得ない。『目黒のさんま』というのがあるが、あれと同じだ。せっかくのサンマから一番大切な脂を抜いて、わざわざまずくしたのと同じことをしているのだ。江戸時代の秩序意識と儒教思想によってがんじがらめになった史書には、この類のものが多いようだ。管見のかぎりでは、在野の『古郷物語』という史書にのみ、官兵衛の息吹が感じられた。 官兵衛の生まれた播磨の国は、中世には悪党の本場として知られ、近世に至っても上州と並んで博徒の多い国だった。中世に悪党と呼ばれていたのは、たいてい寺社の衆徒だ。寺社衆徒は宗教家ではない。朝廷にも幕府にも属さない人達を指す。天皇や将軍のような生きた主人を拒否するために「主は神仏」と号したのだ。たとえ大名の被官(家臣)になっても、江戸時代のそれとは異なり、主従制に縛られることはなかった。己の家業の都合で自由に被官契約を取り消し、また必要があれば、複数の相手と被官契約を結んだ。地縁血縁の縛られず、己の腕と才覚で生き抜いてきた衆徒には進取の気性があり、鉄砲を含むあらゆる先進技術を取り入れたのも彼らである。 黒田官兵衛もまた、彼ら衆徒の末裔である。確たる史実はないが、彼らのような出自の者に確たる史実が残っているはずがなく、状況証拠で判断してよいと思う。中世の主役は彼らであり、官兵衛が若き日の木下藤吉郎(豊臣秀吉)に日本の未来を託そうとしたのも、秀吉が同じ出自であったからだろう。 しかし天下人に成りあがった秀吉は、手のひらを返して中世の自由人たちを絶滅させていった。豊臣徳川の天下統一とは、彼ら中世人絶滅の過程と言ってよいかもしれない。それが時代の進化だと言われればその通りで、江戸時代には自分の都合で勝手にいくさを始める輩など、もう一人もいなくなった。めでたく平和な時代がやってきた。それも二百数十年。幕府の御用学者たちはしたり顔に唱えた。「治にあっては乱を忘れず」と。 だがアメリカの一軍人にすぎないペリーの脅しに転嫁を揺さぶられて、太平の世が乱れてみると、江戸の武士たちは鎧兜に火縄銃という元亀天正の亡霊のような格好で戦おうとする始末。どうでもいい話だが柳生兵庫助の末裔は、その辺の博徒と喧嘩して簡単にぶちのめされた。もしその場に黒田官兵衛がいたならば、柳生よりも博徒の方に共感しただろう。たとえ極悪の徒であったとしても、博徒はみずからの手を砕いて働いている。官兵衛が何より重んじたのは、そのことだったはずだ。
【ずいひつ 波音】潮2014年2月号 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
January 25, 2014 07:07:30 AM
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