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カテゴリ:歴史
大阪城は、大阪有数の観光地のひとつである。現在ある上核は、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡した後、秀吉が築いた城の上に数メートルから数十メートル盛土をして、徳川幕府があらためて築き直したものである。石垣の高さは日本有数で、壮大な石組は訪れる人を魅了してやまない。 明治維新後、大坂城代が治めていた大坂の町は「大阪」と改称し、徳川幕府という支配者を失った大坂城は、全域が陸軍の用地となった。明治3年(1870年)、城内に陸軍所と造兵司が設立されたのを手始めに、どう21年には本丸に第四師団司令部が設置され、城の南には歩兵第八聯隊、三十八聯帯が駐屯した。東側にあった三之丸の米蔵跡には広大な砲兵工廠が稼働していた。 城内の施設でいちばん大きなものは砲兵工廠(のち造兵廠と改称)だった。最終的には現在の大阪城公園から大阪ビジネスパーク、森ノ宮電車区、森之宮団地を含む約百三十万平方メートルという広大な区域に膨張した。線路の東に広がっていた城東練兵場は昭和15年(1940年)に工廠用地として転用され、東外堀も砲兵工廠にするため、大正期に埋められた(平成期に復元)ほどで、最盛期には6万人以上が働いていたという。 大阪環状線の大部分は高架となっているが、戦前に城東線として建設された東部区間のうち、京橋~森ノ宮間は砲兵工廠が見渡せないよう、地上線となっている。終戦まで高い塀が築かれ、車内からの視界を遮っていた。 江戸初期に失われた天守閣の再建は、昭和天皇即位の記念事業として、関一大阪市長が市会(現在の大阪市議会)に提案し、全会一致で可決された。豊臣時代をイメージした復興天守は、鉄骨鉄筋コンクリート造で高さ55メートル。昭和6年に竣工している。 しかし、大阪城天守閣の平和な日々は長続きしなかった。昭和12年、軍事機密を守るため、天守閣から写真撮影が禁止された。同15年には軍部の要請で最上階の展望台は閉鎖され、各階の窓にはブラインドが下ろされ、外はまったく見えなかった。対米大戦後の同17年9月、天守閣は閉館となり、通信隊が使用した。 昭和20年8月14日、大阪に飛来した約160機のB29は、造兵廠めがけて843発の大型爆弾を投下した。死者は、400人以上。終戦前日の悲劇である。 (文筆家)
【近代日本 150年の探訪】聖教新聞2014.8.6 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
April 12, 2019 04:47:23 PM
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