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カテゴリ:抜き書き
日蓮は、法難に耐えて信仰を貫く人々の心を敏感に感じ取っていた。そしてそこで日蓮の重要な法門の一端を初めて明かすことにする。それこそ三大秘法の名目を初めて明かした「法華行者値難事」(真蹟現存)であった。この「法華行者値難事」の内容と文面の厳しさは、熱原法難下に著した「聖人御難事」とそっくりの構造をもっている。ともに門下一同に与えた書であり、厳しく不退転の覚悟を求めている。「法華行者値難事」は三大秘法の名目を示し、「聖人御難事」は出世の本懐を示し、ともに法華経の行者の受難を示す。受難を示すのに釈尊の九横の大難(を)挙げ、天台伝教と比較するのも同じである。思うに日蓮の重要法門というものは師としての日蓮と、弟子としての門下との緊張関係ないしは共鳴によって表出されているのではないだろうか。
「天台伝教は之を宣べて本門の本尊と四菩薩と戒壇と南無妙法蓮華経の五字と之を残したもう(中略)今既に時来たれり四菩薩出現したまわんか日蓮此の事先ず之を知りぬ」(御書965頁) それから少し後、同じ文永十一年(一説に五月)に「法華取要抄」が著されており、より明瞭な形で三大秘法が示される。 「問うて云く、如来滅後二千余年に龍樹、天親、天台、伝教の残し給える所の秘法とは何物ぞや。答えて曰く、本門の本尊と戒壇と題目の五字となり」(御書336頁) この「法華取要抄」身延山へ入って最初の著述であるが、この書の草稿「以一察万抄」十九紙がかつて身延山に残っていたという。このことから「法華取要抄」は「法華行者値難事」の直後に執筆が開始されたもので「佐渡法難」を機縁として書かれた著作と考えてよいと思われる。 つづいて建治二年七月、「報恩抄」が著される。 「問うて云く、天台・伝教の弘通し給わざる正法ありや。答えて云く、有り。 求めて云く、何物ぞや。答えて云く、三あり、末法のために仏留め置き給う。迦葉・阿難等、馬鳴・竜樹等、天台・伝教等の弘通せさせ給わざる正法なり。 求めて云く、その形貌如何。答えて云く、一には日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外(そのほか)の諸仏、並に上行等の四菩薩脇士となるべし。二には本門の戒壇。三には日本乃至漢土・月氏、一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず、一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし」(御書328頁) ここで、三大秘法の表出には共通した特徴があることに気が付く。ともに天台・伝教などが未だ弘通していない法として示されている。それは三大秘法が「本門の本尊」等と「本門」が強調されて、本迹相対の立場からなされているのだと思われる。このように相対してものごとをみていくのは、相互の質的な違いを明らかにするためである。つまり、日蓮だ表出した三大秘法の質的な意味を理解してためには、迹門に位置する天台・伝教のそれと比較する必要があるということである。では天台・伝教の到達点は何だったのか。その到達点こそ、彼らの「出世の本懐」と位置づけるべきことであろう。 天台の到達点は、『摩訶止観』に明かされた「一念三千」であることを日蓮は「観心本尊抄」で示している。日蓮の本尊は、この「一念三千」を本尊として質的に捉えなおしたものであった。「一念三千を識らざる者には、仏、提慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裏み、末代幼稚の頸に懸けさしめ給う」(御書254頁) 伝教の到達点は、法華経迹門の戒壇である。「報恩抄」に「されども経文分明にありしかば、叡山の大乗戒壇すでに立てさせ給いぬ。されば内証は同じけれども、法の流布は迦葉・阿難よりも馬鳴・竜樹等はすぐれ、馬鳴等よりも天台はすぐれ、天台よりも伝教は超えさせ給いたり」(御書328頁、日蓮の会談はこれと質的に違ったものでなくてはならない。 釈尊の到達点は「法華経」であった。そしてその究極を「南無妙法蓮華経」の題目であると日蓮は認識したのであった。「観心本尊抄」に「本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字」(御書247頁)とある。 このように認識すると、「日蓮出世の本懐」に関する古来よりの論争に決着がつくのである。「聖人御難事」の「出世の本懐」をめぐる論争である。 「仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に出世の本懐と遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先先に申すがごとし。余は二十七年なり、其の間の大難は各各かつ(且)しろしめせり」(御書1189頁) この文で論争が起こったのは、釈尊、天台、伝教の出世の本懐を語りながら、日蓮自身の出世の本懐について明示していないことによる。しかし、日蓮が三大秘法の表出に当たって示した方法を用いれば容易にその意味が分かる。 「仏は四十余年」釈尊の出世の本懐は法華経であった。その法華経から日蓮は南無妙法蓮華経の題目を取り出したのであった。 「天台大師は三十余年」天台の出世の本懐は『摩訶止観』であり、なかんずく「一念三千」であった。日蓮はそれを本尊として昇華したのである。 「伝教大師は二十余年」伝教の出世の本懐は迹門の戒壇であった。日蓮は、それを質的に昇華して本門の戒壇として示したのである。 このように見てくれば、日蓮がいう「余は二十七年なり」という意味は立教開示より二十七年目にして出世の本懐として「三大秘法」を成就したことになる。 ではなぜ、日蓮はこの時を三大秘法の成就と見たのであろうか。それは次に続く「其の間の大難は各各かつ(且)しろしめせり」がカギになる。「出世の本懐成就まで大難が内続いたが、それを乗り越えてきたのである。そのことは弟子たちがよく知っていることである」。この「しろしめせり」は単に見知っているということではないと思われる。眼前に熱原の法難で門下が戦っている。これまでも、佐渡の法難、四条金吾が受けた何、池上兄弟が受けた難、下山因幡房日永の受難、数えきれないくらいの多くの大難があったが、門下はそれを乗り越えてきた。それが「各各かつ(且)しろしめせり」だと私は思う。 日蓮は、文永八年の大難において、多くの退転者を出すという悲哀を味わった。しかし、佐渡に於いて流罪者日蓮の本に主体的に集って来た新しい門下ができ、受難を乗り越えていったのである。この熱い信心の波動は日蓮が身延山へ入ってからも止まらなかった。そのクライマックスとして「熱原法難」があった。すべて日蓮の難に連座したものではなく、門下が主体的意思において難を受け、乗り越えてきたのである。 ここにきて、日蓮は所願の達成を認識したのであろう。破ろうとしても破れぬ不動の戒が事実として民衆のなかに据(す)えられたことを日蓮は認識したのではなかったか。このように言えば、熱原の人々は殉教して死んでしまったという人もいるかも知れない。四条金吾も池上兄弟も過去の遠い人だという人がいるかもしれない。しかし、熱原の三烈士の心は、現代の人々、三大秘法を受持して日蓮の教えを行ずる人々のなかに、今なお熱く燃えているのではないか。四条金吾も池上兄弟も現代に生きている。崩れざる本門の戒壇はすでに熱原法難下に成就していたといえるのではないだろうか。でなければ「余は二十七年なり」とは言えないし、肝心の日蓮の出世の本懐が見えなくなる。それこそ「聖人御難事」を単に難を受けたというだけの魂のない空文に貶(おとし)めてしまう。 本門戒壇の建立は、歴史的には、日蓮門下における指標として掲げられてきた。日蓮入滅の直後における弟子たちは戒壇建立を悲願として朝廷へ働きかけた事であろう。それ以降も広宣流布を目指す大きな目標、シンボルとしてあった。それは大きな歴史的意義と価値があったといえる。広宣流布を目指す熱き信心の波動を起こしてきたという歴史的事実は消えることはない。 しかし、決してその歴史的意義を軽視するものではないが、冷静に歴史を眺めれば、時の政権に左右される戒壇観は、やはりその時代における歴史的産物でしかありえない。一国をモデルにする戒壇観も普遍性をもたない。迹門として叡山の戒壇はたびたび焼かれた。そのように何時かは壊され、壊れてしまうような建物や「特定の場所に縛られた」戒壇観は「本門」においては乗り越えられるべきことだと思う。戒壇堂という建物の建立に集約された歴史的な戒壇論は、今日、その歴史的使命を果たし終えたといえよう。 【山中講一郎「日蓮自伝考」人、そしてこころざし】水声社 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
December 26, 2015 05:37:01 AM
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