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June 25, 2016
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カテゴリ:抜き書き
中島●いまのお話で、大衆という問題の難しさをあらためて感じつつ、亡くなった吉本隆明の言う「大衆」と、同じく故人となったばかりの鶴見俊輔の言う「民衆」の違いを思い出しました。
吉本さんは「大衆の原像」というキーワードがあることからも分かるように、大衆の側に立つ思想家でした。しかし、その大衆は一九九〇年代後半になると、新自由主義に飛びついて、小泉礼賛になっていくわけです。この動きを、吉本さんは批判できないどころか、小泉内閣を基本的には支持したのです。お会いしてご本人に理由を尋ねると、「大衆が支持しているから」と言うのです。
この大衆という問題、つまりポピュリズムと権威主義が重なり合っているのが現在の安部内閣の支持率の高さとするならば、吉本的に「大衆の側に立つ」という解が、どこまで有効なのか、というのが疑問になってくるのです。

島薗●要するに民衆の生活思想から離れて宙に浮いた「大衆」の像に追従する思想になっていったということはないですか。中間層よりやや上の、都市に住む知的な人々は、戦前も戦後も、権力に圧迫されると今まで持っていた理想を捨てて違う考え方に向かってしまう。戦前、社会主義的な変革を目指した人が国体論に向かってしまい、その人たちはまた戦後になると嬉々として民主主義を褒め称える。知的な階層のマルクス主義者は、民衆の精神生活というものを理解できておらず、権力に圧迫されると国体論をとりこんだ親鸞主義に行ってしまうというようなことがありました。それについては、第二章で中島さんが親鸞主義の教誨師がマルクス主義者に転向を迫ったという話をしてくださっていますけれども。

中島●一方、鶴見さんは、そういう流動化した大衆というより、農村社会などの地域の力の中に根をおろしたトポス的な民衆に視線を向けていた思想家だと思います。日本の農村社会の慣習や価値観からは、殲滅戦といった極端なものは出てこない。日本の民衆の伝統として、争いごとがあったときでも、なんとか折り合いをつける技術が慣習の中にあったのだと。つまり、あの時代に、日本が全体主義の熱の中で、戦争へと暴走したのは、こうした民衆の中の智慧を活用できる、本当の意味での保守がいなかったからだと言うのです。鶴見さんは、私によく「あなたが言う意味での、私は保守ですよ」とおっしゃってました。
ここに大衆や民衆のもつ両義性の問題があります。民衆は自分のよって立つ足場が亡くなると、つまり社会が流動化すると非常に危うい存在である大衆になっていく。
それこそが、オルテガが言った「大衆の反逆」です。大衆の反動がナチズムのような全体主義を生み出していく。

【愛国と信仰の構造】中島岳志・島薗 進著/集英社新書





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Last updated  June 25, 2016 05:38:50 AM
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