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カテゴリ:歴史
劇作家 山崎 正和
戦後民主主義の子 「国家はいじらしい存在」
≪私が(中国・満州の)小学校に入った年は、まだ黒い制服だった。しかし二年目(一九四一年四月)からは、戦闘帽とカーキ色の制服に変わります。そういう変化が、私が七歳のときに起こっている≫(17頁) ≪いまあらためて私は自分を『戦後民主主義の子』だったなと思っています≫(339頁) ◇ 私は少年時代、軍国主義が高まる京都で苛烈ないじめに遭い、満州ではソ連軍による無知蒙昧な占領を経験し、日本の引き揚げてからは食糧難に見舞われた。 息の詰まるような生活を経て、やっと空気を吸い込んだのが戦後だった。自分の成長というか、意識ある一人の人間としての成長期を戦後の霧の中で過ごした。まずその意味で、自分を戦後民主主義の子なのだと思っている。 また、手探りながら、私たちの世代で戦後民主主義を体験的につくったということもある。一つの例を挙げれば、男女共学は、私が中学生の時に実験的に導入された。中学生ほどの年齢で、男女が席を並べて勉強するなどということは、日本の歴史上、初めてのことだった。 ことほどさように、中学3年から大学院の終わりくらいまでの私の青春は、前人未到の世界を自分で切り開いている感じだった。いわば戦後民主主義の形成に文字通り巻き込まれた。 ◇ ≪「じゃあ、お前たちは何をやったんだ」と問われたら、少なくとも民主主義は守ったといえる。世代全体が暗黙の協力をして、まず軍国主義の復活を防いだ、そのうえで日本を北朝鮮にもしなかった≫(336頁) ◇ 世代論というものは難しいものだが、あえて私を昭和1桁世代と位置付けるならば、上の方には吉田茂、池田勇人、佐藤栄作らがいる。 この人たちが戦後をつくりはじめ、その途中から私たちが参加した。これを明治時代に置き換えると、吉田茂らは吉田松陰、私は森鴎外と似た立場になる。明治第1世代と同じような体験をしたわけだ。 鷗外が生まれた時、国家はまだ小さかったのだ。そのためか、普通、若者にとって国家は、忠実に恐れ崇める存在であるか、抵抗すべき的であるかに分かれるのだが、鷗外は国家を巨大な力と感じてなかった。 この国家観は私にも共通している。むしろ国は、自分が力を尽くして守ってあげないといけない、哀れな子どもに思えた。 だから、私の言う戦後民主主義の子というのは、別に反体制の意味ではない。国家を敬うものでもなく、畏れるのでもなく、愛すべき、いじらしい存在だと見て、形のないものに形を与える。そうした感覚を持つ人ということだ。
「不機嫌の時代」 共産党活動で紛らわす
≪私は『不機嫌』だった。当時はそこまでの分析をしていませんが、アモルファス(amorphous)な、形にならない感情が迫ってきているんですね≫(53頁) ◇ 京都の学校に編入するまで、私は満州の居留民団立の中学校に通っていて、詰め込み教育を受けていた。結果的に大変な英才教育を施されたわけで、そのためか、日本に帰ってくると、学校の授業がばかばかしいほど易しく感じた。 それで退屈して、青春時代の内的葛藤というか、モヤモヤした気持ちを解消したいのだが、その方法は教わっていない。解消法はそれぞれ違ったものであろうけれども、私の場合は共産党の活動だった。私は15歳で共産党員になった。 では、共産党に感銘を受けていたのかというと、実は共産主義がおかしいことは、その段階ですでに分かっていた。 早い話、共産党によると、共産主義社会の移行は「歴史の必然」らしい。必然とは「必ずそうなる」という意味だ。ならば、革命は自然に起きるはずだ。別に党に入って努力する必要はない。これは明らかにおかしい。 にもかかわらず、なぜ共産党だったのか。これが青春時代の摩訶不思議なところで、背中がかゆくてひっかくような思い。形にならないウジウジとした感じ。「不機嫌の時代」とも言い換えられる。 それをぶち破るために、自分でも決して好きではない共産党の運動をしていた。要するにしんどいことをやって気を紛らわせていた、それだけのことだった。 しかし、共産党が想像を絶する暴力集団になったこともあり、大学に入る少し前から、私は共産党や左翼には幻滅しきっていた。それでも、しばらくは周りの友人への「義理」で共産党員を続けていたが、共産党が武装路線を放棄して山村工作隊の友人が帰ってきたので、私はさっさと辞めた。 辞めた連中は皆、元気がなかった。ある男は本当に自殺しそうな顔をしていて、私が「明日からは何でも自分の頭で考えるんだよ」と言ったら、「そうだよなあ」とため息をついていた。 こんなこともあった。私の同級生だった男が共産党の「人民裁判」の結果、死刑の判決を受けた。で、“五山の送り火”で知られる京都東部の大文字山で、木の幹に縛り付けられ、焼き殺されそうになった。幸い、命は取り留めたが、精神に異常を来たしてしまった。これもまた、私が共産党を嫌悪するゆえんの一つでもある。
「『戦後』の結実」 日本式「小国寡民」めざせ
≪私の生きた時代はまだ終わっていない、完全には過去になりきっていないという感じかな≫(399頁) ◇ 日本は、人口が1億そこそこで、国土はアジアのほんの一角に過ぎない。資源といえばほとんどゼロに近い。その中で、経済は世界3位、失業率は3%未満、そして徴兵制度がない。 貧富の差はどうか。グローバル経済によって拡大したことは否定できないが、米国や中国に比べれば、うんとましだ。犯罪率は世界最低水準。そんな国は他に見当たらない。何もかもうまくいっているなどと言うつもりは全くないが、戦後は良い結実を見たといえるのではないか。 ただ、このままずっと続いていけるかどうかは分からないし、むしろ困難の方がはっきりと見えている。まずは、人口減少、高齢化、これをどう乗り越えるか。それと関連して、莫大な国債残高をどうするか。 私は何とか「小国寡民」でバランスが取れると思っている。無論、日本は人口も経済規模も小国ではないわけで、厳密な意味での「小国寡民」はあり得ない。 京都大学名誉教授の白石隆さんが「日本は大国になっても超大国になるべきではないし、なれもしない」といった趣旨のことをかかれておられるが、そのような意味での「小国寡民」だ。 従って、人口約1000万人のスウェーデンのような極端な小国ではなく、何とか努力して人口は1億に近いところで保つ。国土は絶対に拡張せず、国際情勢に対応した抑止力を持つにしても、必要以上に強くなろうとは考えない。もちろん、核は持たない。
「高学歴低学力」 「知的立国」つくる教育こそ
≪いま私が感じている日本の教育上の課題は、頂点を押し上げることではなくて、底辺を押し上げることです≫(326頁) ◇ これからの日本は、願わくは知的立国をめざしたい。知性にはいろいろな意味がある。人間の品格としての知性を国民が持つのは大事なことで、たとえ役に立たなくても、知性は必要だ。一方で、役に立つ知性、いわば経済を発展させる技術も大事だといえよう。 では、それをどうやって実現するか。まず基本的に重要なのは教育投資だ。日本の場合、それしかないと言ってもいいかもしれない。ただし、平等に勉学の機会を与えればいいわけではない。人間は多様だから、多様な能力を、ある制度の下で一元化してしまうのは社会のためにならないし、個人にとっても不幸だ。 世界を見渡してもまねできる人がいないような技術を持つ日本の職人は、現場のたたき上げでその技術を身に付けた。こういう人をわざわざ大学の工学部に入れる必要はないだろう。 今、ほとんど勉強しないで大学へ進学し、分数の足し算もできない学生が少なからずいる。今は少子化時代だから、高校や大学には質を問わなければ全員が入学できる。すると何が起こるか。ニートを大量生産することになってしまう。これはまずい。 従って具体的には、現在の義務教育を100%身に付けてもらう取り組みが重要だと考える。国語であれ英語であれ、中学までの学力を完璧に身に付ければ、社会人として最優秀だ。 それ以上、勉強したいという意欲と、その能力を持っている人には援助を強めてもいいのではないだろうか。誰も彼も一辺倒に進学していたら、中身の伴わない「高学歴低学力」ばかりになってしまう。 もう一つ、東日本大震災を機に改めて浮上した大災害への対応がある。今この瞬間に南海トラフで、東海、東南海、南海地震が同時発生したら、日本は生きられるか。こればかりは予想がつかないが、ここでも重要なのは先行投資だろう。安全対策を万全にしていくしかないだろう。そういう努力がまるで無効になるほど天災は強くないということだ。
公明新聞2017.8.15
時代の位相と展望<中>
知識人たちの戦後
≪戦後、今度は繰り返しで、マルクス主義が一気に伸びました。すると学者たちは(中略)大量に左翼になってしまう。(中略)私たちの世代になって、やっと政府に関わることへのアレルギーが少し薄れたんですね≫(336頁) ◇ 1960年代末から70年代にかけての佐藤内閣時代、政府に政策アイディアを助言する知識人グループが生まれた。メンバーは高坂正尭、京極純一、梅棹忠夫、永井陽之助ら新進気鋭の知識人で、私もその中に加わっていた。 中心にいて取りまとめていたのが、高い志を持って新聞記者を辞め、主相秘書官のポストにあった楠田實氏。「楠田研究会」と呼ばれたこの国際関係懇談会での議論が、やがて沖縄返還や学園紛争の終息などにつながった。 その前にも、池田内閣で主相秘書官を務めた伊藤昌哉氏がいたが、彼もジャーナリスト出身だった。官僚出身でも政治家出身でもない人間が官邸の中枢ポジションを占め、力を振るうことができたのはあの時代だけだろう。今では、戦後民主主義というものの形が非常に精緻に作り上げられてしまったがゆえに難しい。逆に言うと、私たちの時は穴だらけだったということだ。 ◇ ≪今では(中略)優秀な学者が政治に参加するという風土がほぼ確定したと思います。(中略)その意味でわれわれは戦後世代の開拓民だったと思います≫(336頁) ◇ ただ、この楠田研究会を先駆けとして、大平内閣でも有識者からなる研究会がつくられ、知識人が政治に参加する流れが広がっていった。今では、良くも悪くも審議会政治が常態化している。 思えば、英米系つまりアングロサクソン系の国は、学者と政治の関係が伝統的にいい。英国では18世紀の経済学者アダム・スミスの時代から学者が政治家になり、米国では学者が憲法をつくるなど深く政治に関わってきた。その伝統を象徴するものとして、米国には「ベスト・アンド・ブライテスト」があり、英国には「フェビアン協会」がある。 これに比べ、ドイツの近代化を見ると、知識人はある意味、反政治主義で政治というもの事態を軽蔑している。トーマス・マンが『非政治的人間の考察』という本を書いているのが象徴的だ。 実は、戦前の日本では、学者たちはドイツに留学すると反政治主義を覚えて帰ってきた。このためドイツの影響を強く受け、学者はお高くとまって後ろに下がるべき存在となってしまった。 これが一転、戦後になると左翼化という揺り戻しを経て米国型になる。それで佐藤政権における学者の政治参加が楠田研究会となって実を結び、今の各審議会に至っている。私自身もその後、小渕政権時代の「『21世紀日本の構想』懇談会」や、小泉政権下の「追悼・平和施設懇談会」などに参加し、2007年からは中央教育審議会の会長を務めた。 記憶に新しいのが、天皇陛下の退位を巡って設置された有識者会議(座長=今井敬経経団連会長、座長代理=御厨貴東京大学名誉教授)だ。非常に微妙な、つまり一代限りの退位を認め、基本的な皇室典範の改定は行わないが、特例法は典範と一体を成すこととした。 こうした事例を通しても分かる通り、知識人の知恵と工夫が政治に反映され、成果を生んでいることは確かだろう。
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Last updated
October 19, 2017 04:28:51 AM
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