|
カテゴリ:体験談
ある青年の僕の友達の青年の姿を通して我々創価学会が目指すものというのを考えてみたいと思います。このひとは「ひろゆき」君という23歳になる男の子です。
彼は生まれながらに脊椎破裂で小学校の時まで上半身下半身ちっとも動かない。下半身には一本の運動神経も通じてない。リハビリして中学校からは上半身は動くようになりました。そうゆうふうな子です。彼が5歳の時にお父さんが胃がんで死んでしまった。でお父さんは一級建築士だったので建築事務所を手広くやっていました。お父さんが死んでしまってお母さんがその後、継いだけどお母さんはまったく素人ですから。信頼してた部下にお金を持ち逃げされたり何やかんやされたりしてそれでなおかつ、いわゆるオイルショックがやってきて、素人経営でサラ金に手を出してサラ金地獄。ホンマに地獄やった。
小学校3年4年5年のとき物凄く厳しくて。生きたまま首を斬られて胴体だけになった鶏をサラ金業者が家の中に放り込んだり。そんな事ばっかり、「殺すぞ」と電話がかかってきたり、毎日です。それでお母さんはとうとうノイローゼになってしまった。彼には五体満足な弟がおります。五体満足な弟をつれてお母さんは表の鍵を閉めて出て行った。お母さんを責めることは出来ないと思います。
ほんとにもう気が狂わんばかりになってしまって何をやっていいかわからなくなった。死に場所を求めて行ったんでしょうね。ひろゆき君も死んでくれ、という事なんだと思います。当時上半身も下半身も動かないから。彼は何とか生きねばと思って。芋虫のように張っていって。家は大きいですから中庭に落ちて、そこは草ぼうぼうですからその草を食べながら五日間命をつないだ。五日目に親戚のおばさんに発見されて、おじさん、おばさんの家に拾われることになりました。
それで彼はこれから頑張るわけです。リハビリして上半身が動くようになった。中学校に入ったら普通の中学校生と同じようにバスケットボールをはじめた。彼だけが車いす。他は普通ですよ。それでもレギュラーになりました。中学校を卒業して職業訓練校に行って手に職をつけた。職業訓練校を卒業して職場に就職した。それで、車いすの日本のバスケットボールの代表の選手にもなった。車いすのホノルルで開かれた車いすの単距離大会単距離110メートルで世界歴代2位の記録を出しました。
芸術にも挑戦して彼は書道が得意で日本の大使館が各国の首相や外交官に贈る日本の美を世界へという、ビューティーオブジャパンに出展されるぐらい頑張った。上半身だけで運転できる車の免許もとった。彼はなぜここまで頑張れたのか?理由はいつか母親に巡り合ったときにお前がいなくても俺はここまでやったんや!そういって言い返して母親を殴りとばしてやろうと思った。そして母親は自分じゃなくて五体満足な弟を連れて行った。その恨みと怨念で彼はここまで頑張ってきた。そんな彼ですから職場でだんだん孤立していく。先輩や同僚が手を貸してやると言っても「そんなのはいらへん、お前らに体の不自由なやつの気持ちなんかわかれへんわ!」とはねつけてしまうので職場でだんだん孤立していく。
それでもなおかつ体を痛めて痛めていろんなものに挑戦した。その無理がたたって19歳の2月に3、2リットルか3リットルの吐血をしまして職場で倒れて堺市内の病院に担ぎ込まれた。一週間の検査入院、医者は「家に帰って療養してください」「こちらとしてやることはありません」若年性のガンだったんです、無理をしすぎたんです。ベットで自分の荷物を整理して家に帰ろう、ただ死ぬのを家でまとうと思ったちょうどその時に、職業訓練校で一緒だった楠本君、創価学会の男子部の班長に病院でばったり出会った。
楠本「わいどないしたんや?」
ひろゆき「じつは俺どうもガンみたいや。医者からアカンて言われた。俺はもう死ぬだけや。
楠本君「なにいうてんねん、俺と一緒に創価学会やろう!」
ひろゆき「創価学会てなんや?」
ひろゆき「それやといいことあんのか?」
楠本「俺もな、お前と同じ下半身が不自由や、両親も寝たきりで俺が一家の経済を支えている。でもな、この創価学会で何物にも代えられないようなこころの財(たから)を得ることができたんや。日蓮大聖人の言葉の中に『蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財よりも心の財第一なり』とあるんや。お前も俺も蔵の財も身の財もないけど、俺と一緒に創価学会に入って何物にも負けないこころの財を築こうやないか!」 と懸命に説得した。
ひろゆき「よしわかった、どうせ俺は死ぬんだから最後におまえの言う事きいたろう!」
その後すぐに寺院でご本尊を受けて家に帰った。おじさん、おばさんの家です。しかしこのおじさんおばさんが大の創価学会嫌い。創価学会に入ったなら家には入れたらん!そういわれて彼はどうせ死ぬ命だからとこころを決めまして、堺に金岡公園という公園があります。そこのテニスコートの横にテニスコートに水を撒くための水道がありました。この横に車を止めまして。車の中にご本尊をご安置して楠本君が持ってきてくれるパンを食べながら8日間一睡もせずにお題目をあげた。近くに小学校があって通りかかった子供たちが「なんやこのおっちゃん!」と馬鹿にされた。警察官も来た。テニスコートですから若い女性なんかも通るわけです
「なんやこのきたない人」と汚いものを見るような目で見られた。それでも負けずにお題目をあげきった。一日目、真っ赤な血を吐いた、二日目、三日目、だんだんピンク色になってきた。その後薄いピンク色がだんだん透明になってきた。もしやと思って食べた物を吐いて胃の内容物を確認したけど一滴も血が出ていない。
ひょっとしたら治ったんちゃうか?で医者に行ってみた。医者に行って医者もびっくりして、ガンの兆候が無いといってCTスキャンで全部検査した。
医者「医者の立場、科学者の立場としては言えないけども、人間として俺はいう。君の病気は治った。医者としては信じられないけども、君の体にはがん細胞がまったく見当たらない。」
彼は信心の確信をえてその後アパートをかりた。そこから創価学会員としての人生を歩みだした。かれは入信してからの一年間で8人の折伏をした。そのうち7人が職場の同僚、上司でした。あの、人の言うことを聞かなかったひろゆき君が物凄く明るくなったし、それどころか職場で悩んでる人がいればさーっと車いすで行って励ます。誰からも悩みの相談をされるように職場で信頼をえるようになってきた。
そしてこの年の末、8人目。自分を捨てたお母さんに10年ぶりにばったり出会うわけです。10年前は10歳なので覚えています。お母さんもひろゆき君だとはっきりわかった。それまでのひろゆき君ならお母さんにあったら殴り殺したいくらい憎んでいた。ところがお母さんに会ったら本当は40何歳のはずなのに60過ぎのおばあさんに見えた。生活に疲れて髪の毛はバサバサ、顔色も悪かった。それを見たとたんにひろゆき君は泣き出してしまった。
楠本君が横にいたので楠本君から聞いたんですが、泣きながら「お母さんは苦労したんだね」お母さんはびっくりして「ホンマにお前はひろゆきか?ひろゆきだったらなんでお前はお母さんを許してくれるんや?お母さんはお前を捨てて逃げたんよ。」
ひろゆき「確かに昔はお母さんに会ったら殴り殺したいぐらい憎かったんや。そやけど俺は創価学会に入って変わったんや。俺はときどきご本尊様にお題目をあげてるときに幸せやなと思う時がある。」「それは俺はお母さんがこんな体に生んでくれたが為に人の苦しみがその人以上に心がつらいんや。俺はお母さんが捨てて逃げてくれた為に職場でさみしそうにしている人間がおったら。ほんとにその人以上にさみしいんや。」「だから俺はその人に何度も話を聞いてやってそれでそのひとが入信して今何人も元気になってんや。その元気になった顔を見た時に俺はその人以上に嬉しいんや。俺はお母さんがこんな体に生んでくれて、捨ててくれたが為に、普通の人の何倍もの人生を生きてるような気がするんや。お母さんありがとう!」
それを聞いて母親はお前と一緒の信心させてもらうと言って入信して、今は兵庫の方に看護師さんとしてがんばってはります。だから創価学会の宗教は生きる為の宗教だけど、それは別に理屈だとかこころの気休めだとかなまやさしいものではない。本当は人生にとって最大のハンデキャップ、マイナスと言ってもいいぐらいのものをプラスへと転換していく。僕はひろゆき君を見ているとハンデキャップじゃなくて個性に見えてくる。それほどまでにマイナスをプラス、宿命を福運へと変えていく本当に力強い宗教とはこの信心しかないと思います。
以上です。
5月14日に寝たきりオジサンがデジタル音声より文字越ししました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|
|