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カテゴリ:友岡さんのセミナー
大悪大善御書は、断簡(手紙の一部)だけが残っていて、そのために、誰に宛てられたものか、またいつ書かれたものかは、よく分かりません。建治元年という説がありますが、確定してはいません。 廃藩置県後は、堺県としていまの奈良県も堺県の一部でした。それほどの大きさ。今は政令指定都市で、人口も多い(わずかに100万には足りない)ので、日蓮宗系の寺があるのは当然でしょうが、大聖人真筆が残っているということは、そこそこ由緒ある寺でしょうから、それがなぜ、堺やねんと思われるのも当然です。 キーワードは、「町衆」です。 今、「日蓮系」と述べました。日蓮宗ではなく、なぜ「日蓮系」としたかというと、僕は、「宗派」などの違いもですが、「属人的」な違いが大きいのではないか、というのが、僕の考えなんです。 時代的要素も大きい。 室町〜江戸初期は、日蓮系でも、池田名誉会長が同時中継のスピーチで長時間とりあげた、焼けた鉄鍋を頭に押し当てられるという拷問を受けながらも、権威への抵抗を続けた「鍋かぶり日親」の「不受不施派」が興隆したわけで、 権力へ近づいていった日興門流とは、かなり違います。 どちらが「大聖人的」であったか。 ある意味で、それは、「私」が「大聖人」をどう見ていたかの「リトマス試験紙」であると言ってもいいでしょう。 同じ身延派でも、身延の本山のように、国のハンセン病隔離政策の片棒担いだところと、綱脇龍妙さんみたいに、身延派の僧侶なのに、日本人で唯一、ハンセン病療養所(隔離のためのではなく、治療のための)を作った人もいます。 さてさて、応仁の乱(最近は、応仁年間よりもその後の文明年間のほうが、戦乱のピークであったことから、「応仁・文明の乱」と言われますが)の後の一世代、京都の町は長く荒廃していました。1500年ぐらいから、「町衆」と呼ばれる商工業者が交易で力をつけてきて、その人々が、「再び、京都を戦乱におとすものか」と、自治を始めたんです。 ええっ、祇園さんて八坂神社違うの!神道違うの!と思ったら、それは歴史を忘れている、ということです。 明治維新の「排仏毀釈」で、祇園八坂神社は、神社になったのであって、それ以前は、天台宗系の寺だったのですよ。 「檀家制度」と「排仏毀釈」というものがあった日本で、「宗派」による分類が、いかに、あてにならないかが分かります。 俗に「大文字」とも言われますが、五山の送り火にしても、「妙」「法」の送り火がありますよね。もともとは、法華信仰だったんです。 ただし、この法華町衆たちは、戦国時代に天文法華の乱で弾圧されて、若干下火になりましたが、「気風」は地下水脈として、残り続けます。 「京の町衆」の運動は、「自治」とともに、「文化」も花開かせていきました。 さて、「町衆」というと、堺も忘れてはいけません。世界に誇る「自治都市・堺」を作り上げたのも町衆でした。そして、やはり、そこには、日蓮系の思想が基盤となったわけです。 ちなみに、池田名誉会長が、若き日に、頻繁に通った銭湯もこの近くにありました。
そんな場所に、この断簡はあるのです。 特別な因果関係はないですが、その延長に、「私の人生」を置いても、面白いかもしれませんね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
July 1, 2019 03:21:49 AM
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