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カテゴリ:教学
「冬は必ず春となる」。この一節を、幾多の同志が、苦難の冬には支えにし、蘇生の春には感謝の思いで拝してきました。〝座右の御文〟として大切にしている友は、世代を超え、国を超えて世界にいます。このあまりにも有名な御聖訓をいただいた妙一尼が、今回の主人公です。
鎌倉の女性門下 妙一尼は、鎌倉の桟敷という地に住んでいた女性門下です。さどや身延に日蓮大聖人のもとに真心からの御供養を続け、強盛な信心を貫きました。 「佐渡御書」の宛名の一人に挙げられている「さじきの尼御前」(956㌻)は、妙一尼のことであるという説もあります。
退転の徒が続出する中で 文永8年(1271年)の竜の口の法難や佐渡流罪に際し、激しい弾圧は門下にも及び、それにより退転する者が続出しました。 竜の口の法難の直後、一時は大聖人が無罪であるとする意見が幕府の中にはありました。ところが、鎌倉では放火や殺人事件が頻発し、これが大聖人の弟子たちによる仕業だというデマが流されたことで、「二百六十余人」(916㌻)の門下が記された〝ブラックリスト〟まで作られました。大聖人の教団を壊滅させようと躍起になっていた、念仏者らの陰謀でした。 こうして、大聖人の弟子たちに対し、所領の没収、追放、罰金などの不当な弾圧が加えられたのです。例えば、同年10月、佐渡へ渡る直前、大聖人から「五人土牢御書」(1212㌻)を送られた日朗ら5人は、土牢に幽閉されていました。 妙一尼の夫も、大聖人の門下という理由で、所領を没収されてしまいます。生活の基盤を奪われた妙一尼の一家は、どれほど苦しかったことでしょう。 それでも妙一尼は、おそらくは自分のもとにいたであろう使用人を、佐渡の大聖人のもとへ送ったのです。天変地異や蒙古襲来の危機が迫り、人心も乱れていた当時、頼りとする十社がいなくなることは、不便なだけでなく、わが身が危険にさらされる可能性もあったかもしれません。彼女の献身の行動を、大聖人は称賛されています。
夫の最期を案じられる 文永11年(1274年)3月、大聖人は、生きて帰れぬと言われた流罪地の佐渡から、鎌倉へ戻られました。誰もが期間の事実に驚いたことでしょう。 しかし、この朗報を誰よりも喜んだであろう妙一尼の夫は、大聖人が流罪を赦免される前に、亡くなっていました。 妙一尼に残されたのは、幼い子で、病気の子もいました。自身も、体調がすぐれなかったようです(1252㌻参照)。身も心もすり減っていたにちがいありません。 その中で、妙一尼は、出来得る限りの求道心をおこし、身延にも使用人を遣わし、「衣」一枚を大聖人に御供養したのです。大聖人が身延に入られて1年がたった、建治元年(1275年)5月のことです。 大聖人はお手紙(妙一尼御前御消息)を認められ、亡き夫のことを案じられています。 「ご主人は『子どもを残し、この世を去ってしまったら、枯れ朽ちてしまった木のような老いた尼が一人残って、子どもたちをどれほど気の毒に思うだろうか』と嘆かれたにちがいないと思います。(=この「枯れ朽ちて」「老いた」というのは、おそらくは、尼御前を心配する夫の心に移った姿を表現したものだと思われます) また、ご主人の心のどこかには、あるいは、日蓮のことが気にかかっていらっしゃったのでしょう。『日蓮御房は尊敬を集めるにちがいない』と思っておられたでしょうが、その甲斐もなく、流罪されてしまったので、ご主人は『一体どうしたというのか。法華経・十羅刹は何をしているのか』と思われたにちがいないにありません。だからこそ、もしも今まで生きていてくださったならば、日蓮が流罪を許された時、どれほど喜ばれたでしょうか。このように感じてしまう心は、凡夫の心です」(1253㌻、趣意) 極冠の佐渡に、師匠は流されてしまった。そんな中、夫自身は所領を没収され、しかも妻子を残して世を去る……。それは無念を含む「凡夫のこころ」であったかもしれません。しかしその心の根っこには、どこまでも広宣流布の師匠と一緒に生き抜こうとする一念があったことを、大聖人は深く汲み取られていきます。
池田先生の講義から① 大聖人が流罪されたと言っては嘆き、大聖人の予言が的中したと言っては喜ぶ。それは確かに、現実の出来事に一喜一憂する「凡夫のこころ」です。 しかし、この「凡夫の心」には「信心」が貫かれていることを忘れてはなりません。 この「凡夫の心」には、法華経が広まることを喜ぶ「広宣流布の心」があります。また、法華経の行者であられる大聖人を思う「師弟不二の心」があります。 師のために一喜一憂する、この「凡夫の心」を仏の眼から見れば、妙一尼の夫は、大聖人と共に戦い抜き、悔いなき、一生を勝ち飾ったと言えるのです。 ゆえに大聖人は、このあとに「冬は必ず春となる」と言われて、妙一尼の夫が必ず成仏していることを明かされているのです。 大聖人がここで「凡夫の心」に言及されているのは、その心に貫かれている夫の信心を讃えるとともに、妙一尼に故人の成仏を確信させるためであったと拝することができます。 (『希望の経典「御書」に学ぶ』第2巻)
「法華経は冬の信心」 広布一筋に生きた夫の一念を大事にされながら、大聖人が妙一尼に送られたのが、この御金言です。 「法華経を信じる人は、冬のようです。冬は必ず春となります。昔から今まで、聞いたことも見たこともありません。冬が秋に戻るということを。また、今まで聞いたこともありません。法華経を信じる人が仏になれず、凡夫のままでいることを」(1253㌻、通解) 寒く厳しい冬が必ず暖かな春になるとの自然の道理を通して、御本尊を信ずる人は必ず幸せになりますよ、と励まされているのです。ここで言う「冬」とは、三障四魔、三類の強敵との戦いです。
池田先生の講義から② 「冬のごとき信心の戦い」があってこそ「勝利の春」が開かれるのです。(中略) 「冬」には、もともと持っていた力、眠っていた可能性を目覚めさせる働きがある――人生も仏道修行も、原理は同じです。(中略) 冬の間にこそ、どう戦い、どれほど充実した時を過ごすか。必ず来る春を確信し、どう深く生きるか――そこに勝利の要諦がある。(中略) 「法華経は冬の信心なり!」 そして「冬は必ず春となる!」 この「冬から春へ!」の実践を、たゆみなく繰り返し、持続していくことが、人生を最も充実させ向上させていく根本の軌道となる。 この生命の軌道を力強く進みゆくなかに一生成仏の道が開け、無量の福徳に輝く「春爛漫の大境涯」を、三世永遠に満喫していくことができるのです。 (『希望の経典「御書」に学ぶ』第2巻)
信心は特別なものではない 時期は定かではありませんが、最後にもう一つ、妙一尼に宛てられた有名な御書(妙一尼御前御返事)を紹介します。 「信心というのは特別なものではありません。妻が夫を大切にするように、夫が妻のために命を捨てるように、また親が子を捨てないように、子が母から離れないように、法華経、釈迦、十方の諸仏、菩薩、諸天善神等を信じて、南無妙法蓮華経と唱えることを信心というのです」(1255㌻、通解) 分かりやすい譬えを通し、どこまでも、ありのままの素直な心で題目を唱えていけばよい、と信心の在り方を教えられています。 当時、妙一尼は、必死のあまり、さまざまな心がけに縛られていたのかもしれません。あるいは、何か立派な決意をしなければと難しく考えていたのかもしれません。 いずれにせよ、この一言に、妙一尼は、どれほど心が軽くなり、信心を深めていったことでしょう。
【日蓮門下の人間像】大白蓮華2019年3月号 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
September 6, 2019 04:47:45 AM
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