2020/01/24(金)04:51
慈悲の哲学こそ人材育成の要
大阪体育大学大学院教授 曽根 純也さん 運動学の視座に思う指導者論 私は以前、プロリーグの下部組織などで監督を務め、青少年にサッカーを教えてきました。そうした経験を踏まえ、現在は大学で運動学の視点から「運動指導のあり方」を研究しています。 高い水準を目指す選手や指導者にとって、どんな動きが得点につながったのかなどのデータ分析が重要であることは言うまでもありませんが、運動学は、そうしたデータに現れない人間の感情の機微を捉えながら、個々人の技能向上に結び付けようとする学問です。選手によって、同じ言葉や同じ場面に触れても捉え方は異なります。だからこそ、個々人の内実に迫る作業が必要なのです。 この感情の捉え方は、精神医学や看護の世界などで重視される現象学の手法が用いられます。医師が患者を診る際、患者の痛みという内的な体験を正確に理解できなければ、適切な処方はできません。医師には、表現や目の動きといった微妙な体の変化を踏まえつつ、患者の不安な心に寄り添う努力が必要です。同じように、選手の振る舞いを発せられる言葉から、指導者は選手の感覚世界を読み取り、どういう声かけや教え方が適切かを考えていくのです。 その第一歩として、指導者側が心掛けなければならないのは、選手の志向や運動感覚などを熟知することです。例えば、サッカーの試合で相手のボールを奪われてしまった選手がいたとします。そうした局面をビデオなどで確認し、選手の動作や周囲の状況を調べるのと同時に、選手の習慣的感覚を認識するために、その時、選手には何が視覚として捉えられ、何を思い浮かべていたのかを聞くのです。その上で、耳を傾ける際には指導者側のうなずきといったしぐさや表情も大切です。これはペーシングと呼ばれ、選手の側に立とうとする態度によって内的感覚を引き出す手法です。 そして次の段階では、選手の能力に応じた適切な目標像から逆算し、具体的な道しるべとなる方法を提案していきます。 知識を与えただけではできるようになれませんし、分かっていてもできないということがあります。だからこそ基本を丁寧に教えることは大切ですが、その際、たんに反復練習をさせるだけでは、むしろ悪い運動を習得させてしまうため、質的な改善は保証されていないのが一般的です。また指導者が指示を与え過ぎると、選手に依存心が芽生え、変化に対応できなくなってしまうことも研究で明らかにされています。 それより大事な点は、磨いた技術を選手が自らの内省力で検証し、転用できるように助言することです。もちろん選手が考え出したものの中には、最初はうまくいかないこともあります。しかし、その考えを受けとめ、いいアイデアについては「その方向でいい」と、潜在性を信じた励ましを送るのです。そうした触発を重ねることで、選手も自信を持って力を発揮し、プレーできるのです。 さて私は、こうした選手の心を知り、適切に背中を押すといった育成の要諦は、仏法の慈悲の精神に通じると思えてなりません。「大智度論」では慈悲について、「慈」とは一切衆生に楽を与えること(与楽)、「悲」とは一切衆生の苦を抜くこと(抜苦)とされています。〝苦を抜く〟には、相手の心の声に耳を傾け、苦悩を分かち合おうとする努力が必要であり、〝楽を与える〟には、徹底した励ましや喜びを共有しようとする姿勢が不可欠と考えるからです。 思えば学会は、この慈悲の心で世界に広がってきました。かつては〝貧乏人と病人の集まり〟と嘲笑されましたが、これは学会が世間から見放された人々の苦悩と真正面から向き合い、励ましを送り、蘇生させてきた証ではないでしょうか。 もちろん、その蘇生の背景には、不可能を可能にする祈りがあることも承知していますが、そんな人をも成長させる仏法の哲理と実戦は、理想の指導を探求する私にとって触発を与えてくれるものであり、運動学的に見ても理にかなったものだと感じるのです。 (関西学術部員) 【現代と仏教-学術者はこう見る 第15回 】聖教新聞2019.6.30