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カテゴリ:歴史
名古屋大学 減災連携研究センター 武村 雅之 帝国ホテル㊤ 博物館明治村の北口から入ると、すぐにSL東京駅があり、そこを通り過ぎて坂を下ると、正面に帝国ホテル中央玄関(5丁目67番地)が見えてくる。今では明治村を代表する建物になっているが、明治村に至るまでの経緯はそれほど平坦なものではなかった。 帝国ホテルは20世紀建築界の巨匠とうたわれた米国の建築家フランク・ロイド・ライトによって設計され、4年間の大工事の後に完成したレンガ型枠鉄筋コンクリート造りの複雑な構造をした3階建て(地下1階)の大きな建物であった。 その落成披露式は大正12年(1923年)9月1日、まさに関東大震災の当日に行われようとしていた。もちろん子規は中心になり、周りの建物がほとんど消失する中で、帝国ホテルの建物は幸い倒壊や延焼は免れた。建物全体の被害の様子が描かれた当時の学術調査報告(災害予防調査会報告100号丙下)を見ると意外なことが分かる。そこには震災前、つまり落成前すでに後部大宴会場の部分が約50センチ沈下し、その他の建物各部にも不同沈下が見られていたと書かれているのである。 帝国ホテルは現在と同じく日比谷公園と向き合った場所にあった。ここはもともと新橋付近から日々や入江と呼ばれる海が侵入していた場所で、徳川幕府が成立した慶長年間に埋め立てられた場所だったが、それに対応した基礎工事が十分でなかった可能性がある。同じく日比谷入江跡にあった辰野金吾設計の東京駅舎(大正3年竣工)が無傷だったのとは対照的である。 しかしながら、震災による被害はエキスパンション部分(建物と建物の繋ぎ目)に集中。このことが建物各部を致命的な損傷に至らしめるのを防いだようである。これに加え、基礎が不完全であったことが、かえって建物に地震力を伝えにくくし、倒壊を免れたと考えられるかもしれない。 建物は地震の翌日から罹災した各報道機関、各国の在日大使館、主要企業団体の臨時事務所に充てられた。中でも米国からの援助を受ける窓口として役割は大きかったようで、日本赤十字社は9月18日に米国救護団と本社の臨時救護部との連絡を保持するために、帝国ホテル内に臨時救援部出張所を設け、活動した。 (㊦に続く)
【復興へのまなざし「建物が語る災害の実相」2】聖教新聞2019.9.19 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
April 7, 2020 03:22:44 AM
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