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カテゴリ:抜き書き
第八十八話『法華経』と日本文学 和辻哲郎博士に刺激されて、『法華経』と日本文化、特に日本文学について調べてみた。なず仏教伝来が五百参拾八年で、六一一年から六一五の間に聖徳太子が「三経義疏」を書いた。『法華経』と『維摩経』と『勝鬘経』の三つの経典の注釈書である。私は、そのうちの前二者をサンスクリット語から翻訳したが、その意義は大きいのではないかと自賛している。ある学者に『勝鬘経』のサンスクリット語の写本は見つかっていないので、現時点ではそれができない。 聖武天皇時代になると、全国に国分尼寺が作られた。国分尼寺は、正式には「法華滅罪之寺」と言われた。そこでは、当然『法華経』が講義されていた。さらに、『源氏物語』の存在が文書として確認できる最古の年である一〇〇八年に生まれた藤原孝標女は、少女のころ『源氏物語』を読みながらうたた寝をして、夢の中に「いと清げなる僧」が現れて、『法華経の五の巻を、とく習へ』と告げられたと「更級日記」に記している。第五の巻には提婆達多品第十二が含まれていて、そこには龍女という八歳の女性が成仏する場面が描かれているからだ。このように、奈良、平安の時代から『法華経』といえば、女人成仏が明かされた経典として重視されていたということが読み取れる。 あるいは、『源氏物語』を読むと、宮廷で『法華経』を読誦・講讃する法華八講という法会が行われていた。『法華経』八巻があるので、一巻ずつ場所を変えて講義が行われていたのだ。それは光源氏によって催されている。 あるいは伝承文学の中でも『日本霊異記』とか『法華験記』とか、『法華経』信仰に関する説話文学がたくさん作られた。平安時代末から鎌倉時代初期にかけての歌人・西行法師にも『法華経』を讃嘆する歌が極めて多い。『梁塵秘抄』における法文歌は大部分が『法華経』をに関するものである。 あるいは、中学、高校の教科書を思い出しただけでも、そこには狩野派の狩野永徳や、狩野元信などの絵が掲載されていた。あるいは、「舟橋蒔絵硯箱」の本阿弥光悦、「風神雷神図」の俵谷宗達、「紅白梅図屏風」の尾形光琳、「八橋図屏風」の尾形乾山、「松林図」の長谷川等伯――これらは皆、法華宗であり、『法華経』を信奉していた人たちである。歌人や俳人では松尾芭蕉の師匠筋である松永貞徳や、宝井其角、山本春正といった人たちがいる。 こらい、『法華経』は、これほど注目された経典であり、文学への影響は必然的とも言えた。それは、「諸法実相」(諸法の実相)という思想の文学論への展開として現れた。「諸法実相」とは、あらゆるものごと(諸法)のありのままの真実の姿(実相)のことである。 日本の文芸の中で重要な位置を占めているのは短歌だが、その短歌に対して「諸法実相」という考えが大きな影響を与えたように思う。例えば、平安末期の歌人で藤原定家の父親である藤原俊成は、『古来風躰抄』という和歌論を残している。その中で、「止観の明静なること前代も未だ聞かず」という天台大師智顗の『摩訶止観』の序章の一節を挙げ、言葉では表現しにくいことを言葉によそうことによって思いが及ぶとので、さらに『法華経』法師功徳品の、
若し俗間の経書、治世の語言、資生の業等を説かんも、皆、正法に順ぜん。
を踏まえて、「歌のふかきみち」は正法(仏法)と通ずるものであるとして和歌論を展開していた。それは、空・仮・中の三諦、すなわち「諸法実相」の思想との類似性を述べた次の言葉に集約される。
歌のふかきみちを申すも、空仮中の三諦に似たるによりて、かよはしてしるし申すなり。 (岩波文庫『中世和歌論集』、一〇頁)
ここで言う空・仮・中の三諦は、次のような意味であろう。 現象界の諸々の事物(諸法)は、縁起(関係性)によって成り立つものであり、固定した実態のない「仮」の存在である。そのような「仮」の事物を不変の実態と見なして執着するところに苦が生じる。こうして現象界に苦を感じると、その反動として、やはり普遍性こそが大事だとなりがちである。あらゆる事物に実態はない、「空」であって、執着したり、妄想したりすべきものではないとなる。ところが「空に」とらわれすぎると、今度は現実離れした抽象論、観念論になってしまう。やはり、現実が大事と逆戻りしても、「仮」から「空」へと向かったり(従仮入空)、その反対に「空」から「仮」へ向かったり(従空入仮)というように、二者択一的に一方に偏してしまっていることに変わりない。そのいずれのあり方も、偏頗である。 そこにおいて、現象界の事物を固定した実態のない「仮」のものとして否定して「空」に立ち、その「空」にとらわれることを否定して、現実の「仮」を肯定する。「従仮入空」と「従空入仮」の両面を兼ね具えて現象界に普遍性にも偏ることなく、切っても切れない関係としてあることが「中諦」ということである。 空・仮・中の三諦を主張したのは、中国の天台大師であった。天台大師は、三つの項目に分けたが、インドでは、二諦説いて二つに分けるのが常であった。真諦に対する俗諦の二つである。前者が究極の真理、後者が世俗的な真理を意味する。それぞれ、第一義諦に対する世俗諦、勝義諦に対する世俗諦とも漢訳された。いずれにしても、現象界と普遍性との関係を論じたものであることに変わりはない。 こうした関係は、「諸法実相」の「実相」と「諸法」とも置き換えることができる。「諸法実相」とは、「諸法』と「実相」の両方を見極め、「諸法」と「実相」のいずれか一方に偏るのではなく、「諸法」に即して「実相」を見、その「実相」は「諸法」を通して表現されるというように、両者が相寄ってあるべきだと言って捉えていいと思う。天台大師は、「諸法実相」を三諦によって意義づけようとしたのであろう。 「諸法」そのものが「実相」とは言えないが、「実相」は「諸法」を通じてしか現れえない。藤原俊成の和歌論には、この「諸法実相」という〝存在の在り方〟〝ものの味方〟が根底に貫かれていると言えよう。和歌を詠む時には、桜を愛でて、月を眺め、風を感じ、減少・事物として花鳥風月を歌に詠み込む。現象としての「もの」や「こと」に即して、その背後にある実在、すなわち実相というものを表現することが「歌のふかきみち」であるというわけだ。 また、室町時代後期の連歌師で宗祇という人は、次のように言った。
なほなほ歌の道は只慈悲を心にかけて、紅栄黄落を見ても生死の理を観ずれば、心中の鬼神もやはらぎ、本覚真如の道理に帰す可く候。 (『吾妻問答』)
「なほなほは歌の道は只慈悲を心にかけて」に仏教の影響が読み取れる。「紅栄黄落」、則木々の葉が赤くなって映画の盛りを深め、黄色くなっては落葉する自然現象を見て、あらゆるものが生死を繰り返しているのだという道理を達観する。それによって、「心を悩ませる荒々しく恐ろしい力を持つ神霊」も穏やかに静まり、あらゆるものが本来的に覚っているのであり、あるがままの真実を体現しているのだという理を覚知し、ここに回帰することになる。このように自然現象の一端を歌として読むことによって、人間と自然界に行き渡る「あるがままの真実に即した道理」という「実相」に立ち還ることができると述べている。それが、「歌の道」であるというのだ。 このように、『法華経』の「諸法実相」ということが、日本文学を代表する若の精神的バックボーンになっていたと言えよう。 ただ、日本において『法華経』は自然観、芸術論、文学論として受け入れられた傾向が強く、人間の生き方という視点は弱かった。その例外は、日蓮と宮澤賢治であろう。日蓮は、「不軽菩薩の人を敬いしは、いかなる事ぞ、教主釈尊の出世の本懐は、人の振舞にて候けるぞ」と述べ、「人の振舞」の重要性を強調し、上行菩薩、不軽菩薩をわが身に引き当てて論じた。賢治は「雨ニモマケズ」の詩を『法華経』の不軽菩薩を意識して書いたと言われる。
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Last updated
October 28, 2020 03:46:32 AM
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