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カテゴリ:教学
第3回 竜の口の法難と佐渡流罪 ■ついに命に及ぶ王難 この日、平左衛門尉頼綱が、武装した兵士を引き連れ、松葉ヶ谷の草庵を襲いました。大聖人は、謀反人のような扱いを受けて捕らえられます。 この時、大聖人は平左衛門尉に向かって、「日蓮を迫害して倒すことは、〝日本の柱〟を倒すことである。必ず自界叛逆(内乱)・他国侵逼(他国からの侵略)の二難が起こる」と強く諌められました。 するとその日の夜半、突然、大聖人を連れ出し、鎌倉のはずれにある竜の口に連行します。平左衛門尉らは、内々で大聖人を斬首することを謀っていたのです。
――覚悟されていたとはいえ、迫害は、ついに幕府権力が直接動いて、命を奪おうとするところにまで至ったのですね。
まさに命に及ぶ王難です。大聖人は、駆けつけた四条金吾に、「今夜、頸を斬られに行く。この数年間、願ってきたことは、これである」(御書913㌻、通解)と堂々と語られました。大聖人の胸中には〝法華経を説き弘めれば、経文通りの迫害に遭うのは必定である〟との不屈の覚悟があったのでしょう。
■流罪の地でも戦い抜く ――それにしても、斬首を目前にしながら微動だにしないお姿に、驚くばかりです。
殉教の買う語でお供した四条金吾は、大聖人がいよいよ頸の座に臨むという時に、「只今なり(今が最期です)」と言って嗚咽しました。すると大聖人は、厳然として叱責されたのです。「なんという不覚の人か。これほどの喜びを笑いなさい」(同㌻、通解)と。〝民衆救済のために、経文通りに、正しい実践を貫いている〟との揺るがぬ確信に満ちあふれています。
迫害に負けてしまえば 民衆の幸福はない! 苦難に屈してしまったら 社会の平和・安穏はない!
〝断固、障魔と戦い抜き、必ず勝利して、万民の成仏の道を開く〟との、すさまじいまでの気迫が胸に迫ってきます。
――そして、まさに首を斬られようとした時、当然、江の島の方から、〝まり〟のような大きな光ものが現れたのですね。劇的な場面です。兵士たちは恐れおののき、斬首は不可能となりました。
この法難は、大聖人御自身にとって、「発迹顕本」という極めて重要な意義を持つ出来事でした。これ以降、末法の御本仏としてのお振る舞いを示されます。そして、万人が根本として尊敬し、帰依していくべき御本尊を御図顕されていくのです。 大聖人は、約1ヵ月間、相模国の依智(神奈川県厚木市北部)にある本間六郎左衛門重連(佐渡国の守護代)の館に留め置かれた後、佐渡流罪と決まります。 10月10日に依智を出発した大聖人は、1月1日に佐渡の塚原の墓地にある荒れ果てた三昧堂(葬送用の堂)に到着します。
――当時、佐渡への流刑は、生きて帰ることは望めない。死罪にも等しいものであったそうですね。
その通りです。事実、厳しい冬の寒さに加え、衣食にも事欠き、さらに念仏者などから命を狙われるという困難な状況に置かれました。そうした中にあっても、大聖人の闘争がやむことはありませんでした。 翌・文永9年1月16日、17日、諸宗の僧ら数百人と法論で対決し、各宗の邪義を明快に論破されました(塚原問答)。 2月には北条一門の内乱がありました(二月騒動)。大聖人が予言された自界叛逆難が、現実のものとなったのです。 この流罪中、大聖人の身の回りのお世話をし、苦難を共にされたのが、日興上人です。大聖人の慈愛あふれる人格に触れて、阿仏房・千日尼夫妻をはじめ、大聖人に帰依する人々もあらわれました。
■人間は、かくも偉大 ――弾圧は、鎌倉門下にも及びます。
土牢に入れられたり、追放や所領没収などの処分を受けたりします。この迫害の中、多くの門下が、大聖人の仏法に疑いを起して、退転していきました。 大聖人は、かねがね「この法門を実践していけば、必ず三類の強敵が競い起こる」と教えてこられましたが、いざ、苦難に直面すると、〝こんなはずではなかった〟と思う者さえいたのです。 しかし、大聖人は、激しい迫害に遭う門下を励まし、〝今こそ、私と共に戦おう!〟と流罪の地で次々と重要な御書を著し、送られます。門下の信心を破壊しようとする魔の勢力と壮絶な戦いを繰り広げられたのです。とりわけ重要な著作が、「開目抄」と「観心本尊抄」です。 文永9年2月に著された「開目抄」は、大聖人こそが法華経の予言通りに実践された末法の「法華経の行者」であり、末法の衆生を救う主師親の三徳を具えられた末法の御本仏であることを明かされています。 文永10年4月に著された「観心本尊抄」では、末法の衆生が成仏のために受持すべき南無妙法蓮華経の本尊について説き明かされています。
――御自身も命の危険にさらされているにもかかわらず、どこまでも民衆を救うために戦い抜かれた大聖人。大感動です。
〝迫害に負けてしまえば、民衆の幸福はない!〟〝苦難に屈してしまったら、社会の平和・安穏はない!〟――大聖人は、尊き誓願のままに大難と戦い、「難即成仏」の大道を万人に示されたのです。 池田先生は、「幾多の難を勝ちぬかれたお姿は、『人間とはかくも偉大なり』との証明にほかならない」と語られています。 大聖人は、文永11年2月に流罪を赦免されます。3月に佐渡を発って「鎌倉へ打ち入りぬ」(同921㌻)と、堂々と鎌倉に凱旋されるのです。 (つづく)
ここに注目! 発迹顕本の意義 「発迹顕本」は「迹を発いて本を顕す」と読み下します。 日蓮大聖人は、竜の口の法難を機に、凡夫という仮の姿(迹)を開(発)き、凡夫の身のままで、慈悲と智慧にあふれる仏(久遠元初の自受用報身如来)という、妙法と一体の本来の境地(本地)を顕されました。本連載で学んできたとおり、大聖人は、民衆救済の誓願を貫き、大難を乗り越え、障魔を打ち破ってこられました。一人の人間の姿のなかに、発迹顕本を示されたのです。大聖人の発迹顕本は凡夫の姿のままで仏界の生命を現す「即身成仏の道」が万人に開かれたことを意味します。 池田先生は、「私たちも、いかなる障魔も恐れず、勇気ある信心を貫けば、何があっても無明を破り、法性を顕す自分自身を確立することができる。それが、私たちの発迹顕本です」と指導されています。 不退の信心に励む人は、凡夫の身のままで、大聖人と同じ仏の生命を涌現することができるのです。
【教学講座日蓮大聖人御生涯に迫る】聖教新聞2020.4.30 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
February 20, 2021 04:56:22 AM
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