|
カテゴリ:文化
石牟礼道子 創作の原点 くまもと文学・歴史館学芸員 木下 優子 原稿や取材メモに、文学の無限の可能性を求めた痕跡残る 「この世の基準を超えた悪と、この世の基準では見ることかなわぬ美しい世界…」。創作の原点となるメモの一節を結実させた作品が石牟礼道子の『苦海浄土』である。「海と空のあいだに」というタイトルで渡辺京二氏が編集する雑誌「熊本風土記」の連載を始めたのが、昭和40年、38歳の時。後に、その連載に加筆『苦海浄土—わが水俣病—』と改題し発刊された。くまもと文学・歴史館では、今年の2月に没後3年を迎えるにあたり、石牟礼道子資料保存会の協力を得て企画展を開催中である。 昭和2年、熊本県天草郡宮野河内村(現天草市)に生まれ、ほどなく不知火海をはさんだ対岸となる水俣市に移りそこで育つ。不知火海とその沿岸が石牟礼の原風景だ。もっとも初期の頃のものとされる作品名も「不知火」。石牟礼の「不知火」地域への想いは深い。 彼女の歩みは、いくつもの大切な人との出会いによって形作られていった。20代は、短歌で頭角を現し、才能を認められて歌誌「南風」の同人となる。そこで出会った夭折の歌友、志賀狂太からの葉書には、「渋滞するボクの知性に清新な風を吹き込んでくれます。」とあり、共に批判し合い、より高い表現を求めて言葉を研ぎ澄ませていく体験を重ねた。 未曽有の公害が愛する海とそこに生きる人々を侵しつつあった頃、自分の中に「地殻変動」が起こったという皆また出身の詩人谷川雁と出会い、福岡で谷川、上野英信、森崎和江らははじめた「サークル村」に参加。『苦海浄土』の原型となった「奇病」の表現につながっていく。その後、表現の場を求めて仲間と共に作った雑誌「現代の記録」には、「西南役伝説」を載せている。100歳以上の古老たちの世界で、ユーモアに満ち、逞しく生きる人々が見ていた世の中から近代を描き出した。 また、女性史研究家・高群逸枝の作品に衝撃を受け、彼女あてに手紙を書く。間もなく逸枝は亡くなり直接会うことは叶わなかったが、夫の橋本憲三の信任を得て高群の研究所「森の家」に五か月滞在。後に憲三が発行した「高群逸枝雑誌」に「最後の人」を発表する。 今回の企画展では、彼女の若き日の作品や出会いを辿るとともに、作品が発表された当時の雑誌も併せて紹介、さらに、手仕事を大切にした彼女の人柄が伺える。自らが仕立てた着物までも展示している。 このうち、とりわけ注目されるのが、石牟礼が生涯書き続けた創作の原点ともいえるノートの存在である。ここには創作、作品への想い、日々の出来事、取材し素早く書き取った言葉などが綴られている。冒頭の『苦海浄土』のためのメモもその一つだ。水俣病患者たちの想像を絶する苦しみや悲しみ、滅びゆく自然や生類を描くと共に、その人々の中にある精神の崇高な美しさや、本来の自然や人々の暮らしや豊かさや美しさを描く。作品に対する思いや書くことへの覚悟が伝わってくる。このほか、初期の頃の詩「点滅」は、ノートと作品掲載詩誌「直線」と両者との比較が可能。また、天草島原の乱を題材とした新聞連載小説「春の城」に繋がる取材ノートも見ることが出来る。 ノートをもとに執筆された原稿は、徹底して手直しされた痕跡が残り、彼女の創作にかけるひたむきさが伝わってくる。文学の無限の可能性を求めて書き続けた彼女の、直筆資料が伝える力を感じていただければと思う。 (きのした・ゆうこ)
【文化】公明新聞2021.2.21 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
March 2, 2022 05:16:11 AM
コメント(0) | コメントを書く
[文化] カテゴリの最新記事
|
|