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カテゴリ:書評
ヒトラー——虚像の独裁者 芝 健介著
「歴史における個人の役割」とは 京都大学教授 佐藤 卓巳評
日本のドイツ現代研究者による、21世紀の本格的なヒトラー評伝の登場だ。最新の研究成果を反映した本書は、わが国の標準的なヒトラー伝として読み継がれるだろう。 まず、前世紀の同様の位置を占めたヒトラー新書本、村瀬興雄『アドルフ・ヒトラー「独裁者」出現の歴史的背景』(中央新書・一九七七年)と比較してみよう。 「私はヒトラーがきらいである」と村瀬は書き起こすが、独語の印象はやや異なる。バイエルン州南部ベルヒテスガーデンのヒトラー山荘を訪れた村瀬が「陽気な観光客」を目にするシーンで擱筆されている。「ナチスの制服を着た男が現れて、当時のメダルや硬貨を売り歩くと、よく売れるそうである」。 むろん、村瀬もヒトラーの実像を天災でも狂人でもない「ドイツ帝国主義の有能な選手」と論じている。だが、第二次世界大戦勃発で記述が終わるため、「ナチスの成功」に目を奪われる。さらに言えば、ホロコースト研究が本格化する一九八〇年代以前の著作だから仕方のないことだが、反ユダヤ主義運動の歴史は詳細に論じられるが、アウシュビッツにいる採算帝国のユダヤ人迫害についての記述はほとんどない。 こうした「戦争とユダヤ人迫害」を書いたヒトラー評伝を長々と紹介する理由は、著者がその超克を意識的に目指しているためだ。それは本書が次の問いでスタートしていることからも明らかだろう。 「もし戦争とユダヤ人迫害がなかったとしたら、ヒトラーは最も偉大な指導者の一人だったと思いますか?」 戦後のドイツの世論調査で何度も繰り返された問いである。これに誰もが「いいえ」とはっきり回答できるように、著者は「ヒトラー神話」の解体を試みる。つまり、「戦争とユダヤ人迫害」から切り離してヒトラーの評価などできないことを本書全体で示している。第二次世界大戦以後の記述、つまり第5章「「天才的将帥」から地下要塞へ」と第6章「ヒトラー像の変遷を巡って」紙幅の半分近くが充てられているのはそのためだ。 著書もイアン・カーショーの大著『ヒトラー』上下(白水社)を踏まえて、ヒトラー独裁をカリスマ(帰依者を惹きつける非日常的な力)による支配と理解している。このカリスマの機能においては、「人格面だけ見れば特性のない、実に平凡な男・ヒトラー」個人の資質よりも彼を支持したドイツ国民の期待、つまり「民衆の指導者待望、承継あるいはまたルサンチマンによって生み出された社会的産物」が重視されねばならないとカーショーは主張する。 だが一方で、著者はミュンヒェン一揆鎮圧の銃撃について箇所―の記述を請う紹介している。「もし30センチ横にずれていたら腕を組んでいたヒトラーに命中していたはずで、世界史の流れも変わっていた可能性がある」。それで果たして世界史の流れは変わっていただろうか? いまだにヒトラーが「歴史における個人の役割」を問いかける存在であることだけは間違いない。 ◇ しば・しんすけ 1947年、愛媛県生まれ。東京女子大学名誉教授。専攻はドイツ現代史・ヨーロッパ近現代史。
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Last updated
March 14, 2023 05:11:58 AM
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