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カテゴリ:心理学
余技の「作画」について 心理療法家「まどか研究所」主宰 原田 広美
今回は、神経衰弱の克服に努めた漱石の、セルフ・アートセラピーとも言うべき、余技の「作画」について振り返る。ちなみに、漱石の本業以外の執筆の創作には、少年時からの監視や、正岡子規の影響で始めた俳句もあった。 得の話に戻ると、漱石の小説では、『草枕』の主人公が、有名なミレーの『オフィーリア』の絵を語る。『三四郎』では、原口が美禰子の等身大の絵を描き、『門』では、骨董の屏風絵が現れる。 さて、漱石自身の「作画」は水彩画で、留学先のロンドンで神経衰弱が悪化し、予定よりも早く念頭に故国した明治36年の秋に開始された。帰国後、悶々としつつ、ついに『吾輩は猫である』を書くまでは、約2年の月日があった。 当時は、自作の絵葉書のやり取りが、流行していた。漱石は、弟子の寺田寅彦や野間真綱、「ホトトギス」挿絵画家の橋口貢、弟の五葉、作詞家土井晩翠や、大塚保治・楠緒子にも、色あざやかな水彩画の絵葉書を送った。 自由な「作画」は、漱石の精神衰弱の緩和と、作家になるという、心の奥底にしまわれていた「夢の実現」に役立ったようだ。明治38年の年頭に、『吾輩は猫である』の初回を、「ホトトギス」に発表が、執筆が多忙になり、この時期の水彩画は終息した。 その後、漱石が「作画」を再開したのは、大正2年の暮れである。漱石の弟子でもあった画家の津田清楓が、それを導いた。それは、明治45年の『彼岸過迄』、大正2年の『行人』と、執筆での苦悩を体験した後のこと。漱石は、大きな南宋画の達磨絵を描いて自分を癒し、名作『こころ』を書いたのである。 その後も「作画」は続き、漱石の小説は、鏡子との新婚時代を見直す新境地の『道草』、目の覚めるような大展開を見せた絶筆の『明暗』へと続いた。漱石の「作画」は、クリエーションのようであったと言えよう。
【夏目漱石 夢、トラウマ―24―】公明新聞2022.5.6 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
September 11, 2023 06:10:23 AM
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