|
カテゴリ:心理学
なぜ「経済的に恵まれない人」が「新自由主義を支持する」のか? 社会心理学が明らかにしたこと
自分にとって抑圧的な環境、不都合な状況なはずなのに、なぜかそこに適応してしまう。こうした態度を「自発的隷従」と呼ぶことがある。こうした自発的隷従のような態度について、社会心理学の見地から分析した、ジョン・ジョスト『システム正当化理論』(ちとせプレス)が刊行された。訳者の一人である東洋大学教授の北村英哉氏がその読みどころを解説する。
なぜ政権党は勝ち続けるのか? まさに今の時代に合っている。ジョン・ジョストが提唱する「システム正当化理論」、そんな風に考えた。この理論は、「なぜだか現状維持に走ってしまう人々」の生の現実的な姿をつかむことに長けている。 システム正当化理論は、社会心理学の理論である。これまでの社会心理学の理論では、多くの場合、人々は自分自身が属する内集団を好み、自集団の有利を期待し、その利得に合致する方向で行動するものだとされていた。しかし、システム正当化理論は、こうした従来の理論とは反対に、自分の利得にならない行動をする人々について、うまく説明することができるのである。 現在、そうした「自分の利得にならない行動」が目立っているように見える。たとえば、日本の場合、おおまかに語れば自民党などの政権党は、経営者や大企業などのすでに日本社会の中で、有利な地位を得ている人たちの利益代表であり、「金持ち」「貧しい」という二分法で言えば、明らかに富む者のための政策を行う集団である。 したがって合理的には、社会階層の高い者たちが自民党を支持し、社会階層が低い者たちは野党を支持するはずである。そして、階層の高い者、豊かな者は社会全体から見れば少数であるから、大多数のお金持ちではない庶民は野党を支持しないと原理的にはおかしいということになる。 しかし、7月におこなわれた選挙でも、そうした結果にはなっていない。必ずしも豊かとは言えない人々も自民党に票を入れていなければ、比例区において自民党が最大割合(35%ほど)を獲得するという結果にはならないだろう。 SNSでは、野党を支持する人たちから、こうした選択について「愚かな選択」だとか、「分かっていない」などの発言が繰り返される。近年のリベラル層には、「正しくはリベラル的な政党を支持すべきだ。それが分からないのは知識がないのか、考え間違いなどをしているか、愚かなことである」といった意見も見られる。 しかし、ある意味、自民党を政権党にするという選択は、ほぼ一貫して第二次大戦後の日本社会のデフォルトの通常風景であり続けた。70年以上、例外的な時期を除けば、現在の政権党にあたる勢力を全体としては、支持し続けているのである。 こうなってくると、そうした選択を単なる「間違い」で済ませるわけにはいかない。むしろ、そうした結果になってしまう理由を考えるべきであろう。それこそが、理性的な思考となるのではないか。 そして、その理由を考えるのに役に立つのが「システム正当化理論」である。 人は現状維持を望む傾向がある:安全を求めて 人は現在の社会のあり方をそのまま受け入れ、維持する傾向がある。これをジョン・ジョストは「システム正当化」と呼んだ。今こうであることには意味があり、それが正しいことであると正当化してしまうのだ。 このシステム(≒現状)を正当化しようという動機の基盤には、「認識論的欲求」「実存的欲求」「関係的欲求」があるという。 その仕組みを理解するために、システムを認めず、正当化をしなかったらどうなるか考えてみよう。 ある種の社会では政治的な現状に異議申し立てを行い、現在の政府を批判すると弾圧を受けるような場合もある。あからさまな弾圧は存在しない民主主義の国であっても、すでに多くの人が現政権を支持する状態に生まれ育てば、それを支持しないと周囲の人たちから非難されるかもしれない。たとえもし、現在の政治が正しくなく、変えるべきであると考えて行動したとしても、その先、どうなるかはわからない。 実際、日本においても、2009年に政権交代が実現し、民主党政権ができたが、十分に国民の期待に応えた政策を実行できたかどうかまだよくわからない状態で、政権維持に行き詰まり、事実上、最後は政権を投げ出すような行いを示した。 もちろん、それまで数十年もの間自民党の長期政権が続いてきたという環境では、長期間にわたって自民党と強固に連携してきた行政組織や経済団体と、関係を容易に「交代」できるわけではなく、その抵抗にあえば、行政的に行き詰まりやすい。 政権交代がよい結果をもたらすかどうかは、結果論的にあとを待たないと分からない。常に未来は不透明である。 「世の中が変わらなければ、生きていける」 以上の話には、先に述べた「3つの欲求」がすべて含まれている。 まずは認識論的欲求である。どうなるか見通しがわからない、認識的に不分明・不確実な状態は、認識論的欲求として「わかりやすい」「すでにあった」「今までどおりのやり方」への志向性を高めてしまう。わかりやすく言えば、「自分はこれまで生きてきた世の中が今のまま何も変わらなければ、明日も生きていけるだろう」という確実性への欲求が、現状維持、すなわち、システム正当化を志向させるのだ。 つぎに、実存的欲求について。現状を支持する限り、周囲からは何の圧力もかからないだろう。周囲と軋轢を生まなければ安全を脅かされることはない。声高に反対を表明したり、デモに参加したりすることは、職場によっては反感を買ったり、評価を下げたり、出世を妨げたりすると考える人もいるだろう。 逆に言えば、政権に対して反対の意思を示すのは、いくらかの勇気と決断力、そして、組織などから見放されても自分の力で生きていける自信がないと、チャレンジしにくいことである。日本人は概ね自己評価が低い。自己評価の低い者にとって、安全を捨てて、危険のなかに飛び込むのは、言ってみれば「映画のなかだけの出来事」であり、現実の自分が行うことは決してないのである。 特に日本ではリスクが嫌われる。リスクをとる覚悟で何かをやるのは、日本社会では「少し変わった人」である。多くの平凡な人たちは、「変わった人」になる勇気など持ってはいない。「ふつうが一番」なのである。そしてその「ふつう」とは政権党を支持することである。この「自身の安全を守りたい」という気持ちが、実存的欲求である。 「ふつう」でいないと職場や所属集団で「浮く」かもしれない。若者も「意識高いね」と皮肉られるのを嫌う。現在、「空気を読む」という傾向が若者の間で強まっていることを示す、筆者の調査データもある。そもそもとがった意見を言うこと、何かを批判することについて、日本では免疫に欠ける。 欧米のデータでさえ、この「関係的欲求」に基づき大勢の人はシステム正当化を行うというのがジョン・ジョストたちのデータだ。日本においても、同様に周囲の人たちから無難に受け入れられるようにシステムを正当化する様子が見られる。 以上がいつまでも政権党(自民党)が勝ち続ける理由だ。こうして記してみると、すでに誰もがわかっているだろう、実にシンプルな常識ではないだろうか。だが、このシステム正当化理論をおいてほかにこれをきちんと整理して、理論化した考え方がなかったのだ。 「この集団を脱したい」という思い 自分が属する集団を「内集団」、自分が属さない集団を「外集団」という。この関係性を重視する社会的アイデンティティ理論では、人は自身の属する内集団をひいきすることが幾度も語られてきた。しかし、この点についても、システム正当化理論は異なる角度から社会を見つめる。そしてそこにも、自身が必ずしも得をしない政策を推進する政党を支持してしまったりする現象を説明する手がかりがある。 日本ではアメリカのスラムと異なり、貧困地区が明瞭に他と区別されるように存在することは減ってきているが、たとえばスラムに住む者が全員「自分たちの集団はすばらしい集団だ」と皆が考えるとは限らない。「いずれこの集団を脱出したい」と考える者たちもいることだろう。 ジョン・ジョストはこのように、人は自分が属する集団を必ずしも好むわけではないという、それまでの社会的アイデンティティ理論とは対立する現実に着目した。スラムのなかには「いつか成功してお金持ちになる」と思っている人もいる。彼らは、リッチな人々という、現在の時点では「外集団」である存在に憧れ、それらを好ましく思うのだ。一般の庶民であった者が芸能人に憧れ、いつか有名人になってリッチになることを夢見る場合も同様である。 自身が困難な状況にあるほど、そこから脱して望ましい状態に至ろうとする人もいるだろう。その場合、彼らにとって、恵まれた集団は「目標」であって、「批判」する対象とはならない。恵まれた人々(≒社会的に力を持っている人々)を批判したところで、結局、そのあと自分自身がどうなるかは認識論的に不確実であると考えられるからだ。 もちろん、狭い集団の範囲で見れば、内集団をひいきし、外集団を貶めたほうが、安全が守られるかもしれない。しかし、より広い社会を視野に入れた場合、恵まれた人々を批判すると、実存的にも安全が脅かされ、関係的にも(より広い範囲の)周囲から煙たがられ、嫌われるおそれ、可能性があるからだ。 女性の初期の社会進出の際、男性社会に同化するように、「男並み」の働きを目指して、結婚や家庭を持つことを犠牲にしてきた先駆者がいたのと同じ仕組みが働いているのである。この本ではこうしたジェンダーの問題も取り上げている。 そこで、恵まれない人々、不利な人々(の一部)は、恵まれた人々を目標として、努力することになる。こうして努力が成功を生むという神話が支持されることとなり、これは反転して、成功を得られなかった時に、「自分は努力が足らなかった。だから自己責任である」という自己責任論を招くことにもなるのだ。 日本において、いまほど、自己責任論が猛威を振るっている時代はなかっただろうと思われる。自己責任論は、経済的な自由や競争を重視する新自由主義的な考え方と相性がよい。自己責任論で自身の境遇を捉える限り、そこから新自由主義を否定する論理は立ち上がりにくい。 「外集団ひいき」のような状況 この不思議な「外集団ひいき」と言ってよいような状況、すなわち、本来ならば成功した長者が支持することの多い新自由主義に、経済的に恵まれない人たちが絡め取られていく様子を、システム正当化理論は描いている。 ちなみに、「システム」とひと口で言っても、実のところ、そこには政治システムのほかに、経済システムや社会文化システムがある。経済システムの正当化への志向性を測定する尺度項目には、「経済格差は不可避であり、それどころか自然なものでさえある」という認識がその中心的なものとして含まれている。 その尺度によって人々の考えを測定した研究によれば、格差によって不利な状態にあり、いわば虐げられているものでさえ、今の仕組みは公正で正当であり、だから今の自分の境遇は仕方のないことと認めてしまうのである。これが自発的な隷従であるとジョン・ジョストは指摘している。 かつて奴隷制があった時でさえ、それに反発して立ち上がった者のほうが、声をあげなかった者たちよりも圧倒的に少数である。フランス革命など世界史的な革命は、体制をくつがえす人間の力を証明するものとして注目を浴びるが、それ以前のずっとずっと長い間、人々は奴隷制や王政への隷従に堪え忍んできたわけであり、ある意味そうした格差社会に驚くべき順応を示してきたのである。 「システム正当化理論」では、歴史上、圧倒的多数の人々が反乱よりも屈服を選び、従属状態に順応してきたことが指摘されている。インドのカーストにおいて下層にある者がそれを当然と考えていたこと、西アフリカの事例においてもカーストに類する制度が廃止された後も、「ご主人さまから呼ばれたら、当然のようにすぐ飛んでくる」といった日常のあり方が続いたことが示されている。人々は現状である日常を「当然のものとして」受け入れ、そのなかで生きているという現実がある。 そして、社会文化的側面においても、システムを正当化する人たちは、これまでの習慣を守ろうとする。それは、夫婦同姓という制度であったり、男尊女卑の伝統的性役割であったりもする。フェミニズム運動も若い女性たちから嫌われる傾向が指摘されている。いまだに玉の輿のように、「幸せな結婚」を望む女性たちは巷にあふれている。 自ら差別状態に入っていっても、差別されているという実感を持たない不利な立場の人たちもいる。差別されている事実に気づくこと自体が、自分の心を傷つけてしまうからだ。 私たち日本で暮らしている人々も、こうした現状において「隷従を続けている」との描写を否定できるだろうか。批判的精神を獲得するには、自身のなかにある認識論的、実存的、関係的不安をまず克服しなければならないのである。そうした安全感覚は、今の日本で広く与えられているであろうか。
東洋大学社会学部社会心理学科教授 北村 英哉HIDEYA KITAMURA 東洋大学社会学部社会心理学科教授、大学院社会学研究科長。東京大学大学院社会学研究科博士課程中退。博士(社会心理学)。専門は、社会心理学、感情心理学。社会的認知と感情、モラル感情、公正観、偏見・差別などを研究している。主著:『偏見や差別はなぜ起こる:心理メカニズムの解明と現象の分析』(ちとせプレス、共編著)、『あなたにもある無意識の偏見:アンコンシャスバイアス』(河出書房新社)など。
Gendai-media2022.08.05 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
December 25, 2023 05:24:15 AM
コメント(0) | コメントを書く
[心理学] カテゴリの最新記事
|
|