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カテゴリ:危機の時代を生きる
「よりよき社会と人生を」 デューイの思想を現代へ
インタビュー 上智大学上野 正道教授
激動のアメリカ ——まずは、デューイが生きた時代についてお伺いできればと思います。当時のアメリカは、どのような社会であったのか。また、どのような問題意識を形成していったのでしょうか。
デューイが生まれたのは1859年、亡くなったのは1952年です。南北戦争(1861~65年)による荒廃の中、少年期を過ごしました。その後、アメリカは政治と社会が著しく進歩する「革新主義」の時代に入り、未曽有の繁栄を享受していきますが、20世紀には2度の大戦や世界恐慌が起こりました。 こうした激動の時代にあって、より良き社会とは、そして、より良く生きることは、どういうことなのか。それを真摯に問いながら、人間と社会の新しいつながりをつくり直そうとしたのが、デューイでした。 翻って現代もまた、平和や環境、人権などを巡ってさまざまな問題が噴出しています。生命が脅かされ、「いかに生きるか」が切実に問われている。デューイの時代と共通する点や、そこから学ぶべき点も多くあるといえるでしょう。 当時のアメリカは、学問的にも大きく転換した時代でした。例えば、ダーウィンの「進化論」は、生命は前持って決められたものではなく、たえず進化し変容するものであると起き、大きなインパクトを与えました。デューイ自身も、すでに傾倒したカントやヘーゲルの観念論、そしてダ―ウィンの進化論を深める中で、そうした動的な生命観を形成していきました。それは、1016年に発刊された著作『民主主義と教育』の冒頭に、生命は世代を超えて更新され、継承されていくものであるといった記述があることも、見て取れます。 また当時は、エマソンやソローを中心とする超越主義が、アメリカの思想や文学を席巻しました。「内なる声」「両親の声」に耳を傾け、「私たちはどのように生きるか」を投げかける超越主義は、人間の内面と世界を、どうつなぎ直していくのかを問うデューイの哲学にも、多大な影響を与えたと考えられます。 第1次世界大戦(1914~18年)後、アメリカは「狂騒の20年代」や「黄金の20年代」と呼ばれる繁栄の時代を迎えます。新聞やラジオ、映画などが大衆文化の普及を促し、ミュージカル、ファッション、野球をはじめとするスポーツなどが、広く親しまれるようになりました。 産業が発展する一方で、年の中に、経済格差や貧困が拡大し、十分な医療や教育を受けられない世帯が増えていきました。 デューイは、早くは19世紀末から、社会から取り残されがちな人々を支援する慈善活動にも、精力的に参加しています。格差や貧困といった社会的課題に目を配りながら、特権階級の人たちだけでなく。生活困窮者も、移民も、障がい者も、あらゆる人たちが幸福と希望を抱いて暮らせる社会の実現を志向しました。 彼にとって、そうした社会の鍵となるのが、教育でした。
「子どもは太陽」 ——デューイは、教育や学校の役割をどのように捉えていたのでしょうか。
今日の教育現場では、例えば、アクティブ・ラーニングや探求的な学び、協同的な学び、生活教育、ラボラトリーの学び、クリティカル・シンキング、ワークショップなど、さまざまな実践が普及しています。デューイは、それらの提唱者である、または深くかかわった人物であると紹介されることが、よくあります。 それは一面、間違ってはいないのですが、デューイはただ方法論を説いたわけではありません。教育を、もっと根底から捉え直そうとしていました。近著『ジョン・デューイ』の副題は「民主主義と教育の哲学」としましたが、民主主義や平和、人権、格差や貧困といった問題を見つめていたデューイにとって、学校とは「学ぶ場所」であるだけでなく、何よりもまず「生きる場所」でした。 デューイは、学校で子どもたちが機械的に集団として扱われていることや、カリキュラムや教育方法が画一的であることを、「重力の中心を子どもに置いていない」と批判しています。 そして、「学習」については多くが語られていても、子どもたちが「生活」をスバではなくなっていると指摘しました。学校とは生活する場所。すなわち「生きる場所」であるという前提に立って、初めて、さまざまな実践が意味を持つと考えたのです。 「子どもが太陽となり、その周りを教育のさまざまな装置が回転する」とデューイは構想しています。それは、「教育におけるコペルニクス的転回」とも呼ばれる変革でした。 私たちは、どこかに教育の〝最終的な到達点〟があると考えがちです。子どもは未成熟の段階であるのに対して、大人は成熟した段階である、というように。しかしデューイは、そうした二分法や段階論を退けました。人間は誰もが未完成で、学び直していく存在であり、教師も子どもも、共に生き、互いに豊かな学びを生成する場所が、学校であると捉えたのです。 またデューイは、学校とは、いますでにある社会に子どもを順応させる場所ではなく、これから向かうべき社会への、発達の「芽」を宿した場所であると述べています。こうしたイメージは、「スクール」の語源である、ギリシア語の「スコレー」が本来持つ意味を、想起させるものです。 すなわち、スコレーが「閑暇」や「自由な時間」を意味したように、学校とは、社会の要求や圧力から免除され、実験や失敗も許容されながら、人間の可能性を開いていくべき場所です。学校は、理想の社会の萌芽となりゆく場所であるというのが、でデューイの教育論の核心でした。 そうした点から見てみると、現代は、学校が社会からの要求を受けやすくなっていることに気付きます。例えば、グローバル人材の養成のためにキャリア教育や英語教育の早期化を進めるべき、AI(人工知能)もどんどん入れるべきというように、常に要求ばかりが入ってくるのです。すると学校でも、受験のためや就職のためばかりが優先されるためだけに学ぶことが重要視される印象があります。 もちろん学校には、今ある社会の要求に応える側面もありますが、他方で、本来の変化の主体者となるのも学校です。 今、必要とされる知識や技術を身に付けさせるためだけでなく、子どもたちが、これらの社会について考え、実験していく。地震の理想の人生のために、本当に学びたいことを深めていく。それが学校であり、そこに治世の錬磨があるというデューイの思想が、現代に示唆するものは多いのではないでしょうか。
弱さを抱えながら支え合い 対話を諦めない人間の強さ
問いを共有する ——上野教授は、誰もが社会から取り残されることなく、他者と共に生きる民主的で持続可能な世界を志向したデューイの哲学を、「コモン・マン(一般の人)」のための哲学であってといわれています。
多様な人を含むという意味で、また、普通の人が主役になるという意味で、私は「コモン・ン」を「ごく普通で、一般の人」と解釈しています。一部のエリートや専門家が社会を設計するのではなく、多様な文化や背景を持った、ごく普通で一般の人が社会に参画し、民主主義の担い手となっていくという、デューイのビジョンが込められていると考えるからです。 多様な人々が助け合い、社会を創造していくという民主主義の理念を規定には、「コモン・マンへの信仰」があり、「人間性の持つ可能性への信頼」がありました。それは、決して根拠のない楽観主義デアありません。2度の大戦を経験したデューイは、社会に不信感や不寛容がまん延し、分断が深まるのを目の当たりにしています。 しかし、それでもなお。人間性への信頼を放棄することはなかった。民主主義を鍛え直す道を常に模索し続け、だからこそデューイは教育を大切にしてきました。 激動の時代にあって、教育を通して民主的な社会を再構築し、人間の幸福を開いていく。その希望にかけたのだといえます。 コモンには、「誰でもの」「共通の」という意味でもあります。これは、「誰も取り残さず」「全ての人に」というふうにも捉えられるのではないでしょうか。 ポピュリズムやフェイクニュースが横行し、社会の分断が深まっているのが現代です。技術が進化する一方で、それを制御していく倫理や法整備、あるいは、人間にとってどのような意味があるのかといった議論が不十分のままでは、多くの人が置き去りにされてしまいます。 AIに知識や情報の量ではかなわない時代にあって、「どう生きるか」「何を学ぶのか」を問い続けていくことは、人間にしかできないことです。 現代は、学習においても仕事においても、すぐに回答が得られること、即座に結果を出すことがよいことであるとされがちです。でも、行ったり来たりを繰り返し、試行錯誤するのが人間本来の強みです。その意味で、「コモン・マン」は強くて自立した事故ではなく、〝弱い〟存在といえるかもしれません。弱さを抱え込んで、それを分かち合い、支え合うことで、人間は力を発揮するのです。 デューイは、ある物事について完璧に分かってはいないが、何もかもわからないわけではないという「中ぶらりん」の状態でこそ、思考の力が磨かれていくと述べられています。 たしかに現実は、全か悪か、正義化不正義化というように、単純に割り切れない問題ばかりです。しかし、答えや結論が共有できないときも、「問」それ自体は共有できます。たとえ見識が一致しなくても、対話し続けることはできる。それが人間だと思うのです。
世界への想像力 ——デューイは、他者を遮断することなく耳を傾け合う対話が、公共性を創出し、民主主義を再生する鍵であると捉えていました。極端な意見に左右されやすい現代においても、異質な他者と関わり合い、粘り強く対話し続けることが、共生の未来を開く力であると確信します。
その通りだと思います。対話が途切れたときに、偏見や暴力が生まれます。だから、対話を諦めてはいけない。デューイの「人間性の持つ可能性への信頼」は、対話し続けることの可能性への信頼であったともいえると思います。 第1次世界大戦の最中、ニュースを通してさまざまな事実が、情報操作やプロパガンダの形で歪曲され、誇張され、また隠蔽されました。当時、ジャーナリストのウォルター・リップマンは、人間が何かを認識する際には、すでにある感情をもとにしており、ゆえに、市民はメディアの情報を理性的、合理的に判断できるという、民主的な社会の前提は、誤りであると主張しました。 そして、民主主義を構成する「全能な主権者としての市民」というのは虚偽の理想であり、公的な問題については、専門家に委ねるべきだと言ったのです。 彼は世界的に著名なジャーナリストであり、これらは鋭い洞察です。しかし、デューイは与しませんでした。リップマンが主張する「公衆の消滅」が現実であるならば、その解決を専門家やエリートに求めるのではなく、「明晰な公衆」を再生する方法を探ろうとした。人間性への信頼を放棄しなかったのです。 デューイにとって民主主義の最背の鍵となるのが、「顔の見える関係」で対話し、活動するコミュニティーをつくることでした。 彼は「独白」と「対話」を区別しています。コミュニケーションによる共有を欠いた独白は、「傍観者」を生む。一方、対話では、一人一人が、社会に生きる「当事者」の感覚を発達させていくことができます。 この当事者性を磨くことが、現代の危機を克服する鍵でもあると思います。例えば、ウクライナの危機やスーダンの情勢、あるいは世界各地の自然災害など、たとえ自分の目の前で起きていないことに対しても、想像力を働かせることができるからです。それは、対話を諦めず、対話し続けることによる帰結であると思うのです。 対話とは、人との対話もあれば、ときに過去との対話であったり、世界との対話、あるいは文化との対話であったりもします。 デューイは、自由な探究や創造的なコミュニケーションを促す場として、アート教育的にも力を入れました。アートをはじめ文学、音楽、演劇など、「一部の人たち」のものであった文化を、あらゆる人に開かれた、「コモン・マン」の文化として普及させていったのです。そして彼は、アートと同様、宗教もまた、全ての人たちのためにあると捉えていました。 直接的には見ることや知ることのできない事柄に対しても、想像力を働かせ、当事者となって思いをはせていく。それが信仰であると、私は理解しています。 ごく普通の、庶民たちによって織り成されていく対話が、他者や世界への想像力を広げていきます。今、求められる宗教の役割もまた、そうした点にあるのではないでしょうか。
うえの・まさみち 1974年生まれ。上智大学総合人間学科学部教授。東京大学大学院教育学博士課程修了。博士(教育学)。大東文化大学准教授、教授、中国の山東師範大学、済南大学、西北大学の客員教授などを経て現職。著書に『ジョン・デューイ——民主主義と教育の哲学』『学校の公共性と民主主義——デューイの美的経験論へ』『民主主義への教育——学びのシニシズムを超えて』などがある。
【危機の時代を生きる希望の哲学】聖教新聞2023.6.3 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
August 2, 2024 05:56:31 AM
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