2024/11/06(水)04:57
「子どもまんなか社会」とは?
「子どもまんなか社会」とは?「今を生きる私」から始める未来「こども基本法」施行、「こども家庭庁」の発足から半年がたちました。めざすべき社会像は「こどもまんなか社会」です。それは具体的にどんな社会? 自分にも関係ある? 上下2回にわたり、日本大学文理学部教授で子供政策が専門の末富芳さんに聞きました。(聞き手=大宮将之、村上進)インタビュー㊤ 日本大学理学部 末富 芳教授すえとみ・かおり 山口県生まれ。京都大学教育学部卒。同大学院教育学研究科博士課程単位取得退学。学術博士(神戸大学大学院)。専門は教育行政学、教育財政学。大学院修了後、福岡教育大学准教授などを経て2016年から現職。内閣府子供の貧困対策に関する有識者会議構成員、文部科学省中央教育審議会委員等を歴任。著作に『教育費の政治経済学』(勁草書房)、『子育て罰「親子に冷たい日本」を変えるには』(共著、光文社新書)などがある。 子どものことをどう捉える?——「こども基本法」が施行された意義とは改めてなんでしょうか? それは二つの側面から語られます。「理念法」としての面と、「政策規定(プログラム)法」としての面です。まず理念としては「子どもは権利の主体である」と位置付けられたことが非常に大きい。子どもを「大人が保護すべき対象」として捉えるだけでなく、「大人と同じように、一人の人間としての権利を持った主体」だと定義されたわけです。 ——見方を変えれば、これまでの日本は、子どものことを〝大人と等しく権利を持った主体〟と認めず、〝未熟な存在〟とみて、その意見を尊重しない社会だったともいえるでしょうか。 ええ。ご自身が子どもだった頃を振り返ってみて下さい。例えば学校や自治体において、自分たち子どもにかかわるルールや政策が検討されている時、「どうせ子どもだからわからないだろう」と理由をつけられ、自分たち(子どもたち)の意見を全く聞いてもらえず、大人たちだけで勝手に決められたり、自分たち子どもが何らかの意見を述べても、「子どものくせに」と思われ、その意見を抑え付けられたり……。思い当たるフシは、ありませんか?(苦笑)1989年に国連で採択された「子どもの権利条約」には、〝最も大切な「四つの権利」〟として、「自分の意見を伝え、参画する権利」をはじめ、「子どもにとって最も良いことが実現される権利」「差別されない権利」「安全安心に成長する権利」が掲げられています。「こども基本法」の意義のもう一つの側面についてはまさに、この「子どもの権利条約」を「誠実に順守」するための政策が充実し始めてきている点を挙げられるでしょう。 「からだ」「心」「社会」の全て——先月末、こども家庭庁は、子ども・若者政策の指針となる「こども大綱」の中間整理案を示しました。 評価できるポイントはいくつかあるのですが、「こどもまんなか社会」の定義がとても素晴らしい。「全てのこども・若者」にとって幸せな社会とは、具体的には、「①身体的」「②精神的」「③社会的」に、将来にわたって幸せな状態(ウェルビーイング)で生活を送ることができる社会である——と定義しているのです。幸せとは何かを考える上で「からだ」「心」「社会」という三つの側面から、子どもや若者たちの状態を捉えること、その三つ全てが良好な状態となるようにアプローチすることが、絶対に欠かせません。一方、「子ども大綱」の中間整理案には、まだまだ課題もあります。私自身、こども課程審議会の「こどもの貧困対策・ひとり親家庭支援部会」で委員を務めているのですが、「子どもの貧困」に関する記述が十分ではなかったと感じています。「子どもの貧困」の解消なしに、「子どもの権利」の保障と「最善の利益」の追求など、ありえません。もちろん今後、大綱案が改善されていくことを期待しています。 子どもの貧困 視点を変えて——7月に行われた創価学会女性平和委員会社債の「平和の文化講演会」で、末富さんは「子どもの貧困」の定義をめぐって、多くの場合、〝低所得世帯の問題〟として限定的にとらえられてしまっている実情に、警鐘を鳴らしていました。 世帯の所得が「高い」か「低い」かだけで、「貧困」を捉えてしまうと、家庭内における子供たち一人一人の状況が〝見えなく〟なってしまいます。「子どもの貧困」とは親の所得の高低にかかわらず、「子どもらしく生きる権利や安心・安全に育つ権利、幸せな生活が奪われている状況」である——との視点の転換が必要です。今、社会科学の分野では「家庭内貧困」という概念が注目されています。たとえば世帯の稼ぎ手である父親が、配偶者である母親、子どもの生活資金を不当に制限・管理する「経済的虐待」をしている場合、世帯の収入が安定していたとしても、子どもの状況は「貧困」です。これでは、子どもに「安心・安全」があるとはいえません。また他にも、例えば2人きょうだいのうち上の子だけが習いごとをさせてもらったり、学習塾に通わせてもらったりしているのに、下の子はそれを一切させてもらえないといったケースもあります。現代は地域のつながりの希薄化や核家族化が一段と進み、子どもたち一人一人の置かれている状況が周囲から〝見えなくなっている〟社会ともいえるでしょう。今までは「家庭内の方針」として見過ごされてしまっていたようなケースについても、「こども基本法」に基づいて〝子ども一人一人の権利〟を「擁護する視点から、地域・社会全体でアプローチし、解決していかなければなりません。その意味でも、行政から独立した立場で子どもの権利が守られているのかを監視し、権利の擁護に努める専門機関「子どもコミッショナー」の創設や、子どもたちが安心して何でも相談したり、助けてもらえたりする自治体の第三者機関「子どもオンブズマン」等の拡充が一層、求められます。こうした「子どもの権利」を守る仕組みづくりとともに、絶対に外してはならないことは、子どもたちに自身が「自分たちは権利の主体なんだ」という意識や自覚を育める「学びの場」を、積極的につくることです。そもそも権利とは何か。どんなことが権利の侵害に当たるのか。そうした知識を持っていなければ、学校や家庭内で大人から言われたこと、されたことに対して「これは権利侵害なんだ」という認識をもつことはできません。認識することで初めて、安心して相談することもできるのです。 「沈黙の文化」を「対話の文化」に子どもの意見を聞ける大人に 人権意識を育むために——子どもたちの人権意識の向上を阻むものがあるとすれば、それは何だと思われますか。 一言でいえば「沈黙の文化」です。「〝子どもなんだから〟我慢しなさい」とか、「〝子どもなんだから〟黙って大人の言うことを聞きなさい」とか、そういった理由だけで沈黙を強いられ、意見を表明する権利を奪われ、人権とは何かを学ぶ機会すらも奪われてきたのが、これまでの日本社会だともいえます。 ——近年、問題となっている学校の「ブラック校則」(必要性や合理性が見当たらない校則)も、「「沈黙の文化」を象徴するケースの一つかもしれません。例えば「生とは登下校時にコンビニに入ってはいけない」と指導されているのに、大人である教員は出退勤時、普通に入っている。その矛盾に生徒が「おかしい」と声を上げても、「子どもだから」という理由で一方的に制限されてしまう……。 そもそも登下校の際の責任は、学校ではなく保護者にあります。民法上に定められている親の責任(監護権)の範囲なのです。だからそもそも、登下校の際にコンビニに入ってはいけないとか、学校から指示される理由はないのですが……。ただ学校側としても、コンビニに自分の学校の生徒が集団でたむろしているのが常態化している場合、学校にクレームを入れられることが多いため、「安全管理」の名のもとに、コンビニへの出入りを制限してしまうのでしょう。では、こうしたケースの場合、「権利」の視点からどのように対応すればよいのでしょうか。小・中学生が「子どもだから」という理由だけでコンビニの出入りを制限されること自体、権利の侵害です。一方でコンビニ側の視点に立って考えてみた場合、お店の出入り口に集団でたむろされると、他のお客が入りづらくなるため、お店にとっては「利益を上げる権利」が侵害されている状態だといえるわけです。もしも学校教育の現場でこうしたケースを取り上げるとしたら、生徒とコンビニの双方にそれぞれ権利があることを学び、それをどうすれば侵害せずに尊重できるか——子どもたちを主体とした「対話」を通して共に考えていく方法が挙げられるでしょう。「沈黙の文化」の文化の対義語があるとすれば、それは、「対話の文化」です。しかし、この「対話の文化」「対話の作法」が日本社会に十分に育っていないことこそ、課題なのです。 どんな人生がいいですか?——自分も相手も、大人も子どもも、どうすれば「互いの権利」を守り、「共に幸せ」な状況を作れるか。その道筋を見出すために「対話」が必要なのですね。「自分も相手も幸せに」という目的を踏まえた上で「こどもまんなか社会」の実現を大人たちに呼びかけると、「子どもの大変だろうけれど、大人だって大変だよ」「子どもを大切にと言われても、自分たち大人の負担(物理的・経済的)が増えるのは嫌だ」という声が聞かれることも少なくありません。末富さんであれば、そうした方々と、どのような対話をされますか。 ちょっと厳しい言い方になるかもしれないのですけれど……。こう問いかけるようにしています。「あなたは、誰かを傷つけて不幸にしたいですか」と。それでよいというのであれば、仕方がありません。けれどそう問いかけたとき、ほぼ全ての人が「いや、それは違う」「そんなことは思っていない」とお答えになるんですよね。それはなぜかと言えば、誰もが自分の心の中に「誰かを望んで不幸にしたくはない。できればだれかを幸せにして、自分も幸せでありたい」という本然的な願いがあるからだと、私は思っています。であるなら!——その願いに正直になりましょう。そしてその優しさを真っ先に向けるべきは、子どもたちをはじめ、高齢者や障がい者など、社会的に弱い立場に置かれている人ではないでしょうか。そうした人たちに優しい気持ちを向けてこそ、社会は初めて明るくなり始めるからです。社会福祉学には「パルネラビリティ」(社会的衰弱性)という概念があるのですが、社会で一番置き去りにされがちな人の幸せに対して目を向けてこそ、あらゆる人々が幸せになれるという認識が共有されているのです。「誰かを置き去りにして、誰かを傷つけて、誰かを不幸にする人生でもいいですか」という問いを立てることで気づきが生まれる——人権について学ぶ大切さも、そこにあるんです。誰かの権利の侵害を放置するということは「誰かを不幸にして傷つける」ということと同じ意味ですから。 ——私たちが信奉する日蓮仏法にも「自他共の幸福」を追求します。創価学会名誉会長の池田大作先生も「自分だけの幸福もなければ、他人だけの幸福もない」と一貫して訴えてきました。 人権を大切にすることは「自分も相手も幸せになるため」であり、究極は「平和」のためだと、私は思っています。この点、池田名誉会長が「対話」の目的を「平和」という一語をもって繰り返し強調されてきたことに、「なんて優れたセンスだろう!」と尊敬の念を抱いているのです。 【危機の時代を生きる 希望の哲学】聖教新聞2023.10.7