ラッコの映画生活

2008/10/13(月)16:05

キェシロフスキ監督の編集/『トリコロール 青の愛』

キェシロフスキ監督(16)

『トリコロール 青の愛』における クシシュトフ・キェシロフスキ監督の編集 製作者マラン・カルミッツ氏への手紙から ハリウッドでは、基本的に監督と編集は分業で、監督には編集権がない。それゆえに監督の意に反した編集が行われる場合もあるわけだ。そんな作品の監督自身によるディレクターズ・カットなるものが後日劇場公開されたり、DVD等で発売されることがある。でもこのディレクターズ・カット、たいていは最初に劇場公開されたものより長い。最初の劇場公開版が2時間で、ディレクターズ・カット版が2時間20分とかいった具合だ。完全オリジナル版というのも同様だ。つまりは監督としては2時間20分のものとしたかったのが、他人に削られ、削られ、2時間にされてしまったということだ。ところでこうした長いバージョンは本当に映画として短いものより優れているだろうか?。余計な水増しではないか?。他人ではなく監督本人が編集をしたという意味は大きいけれど、なぜ使うシーンやその長さ、配列を変えるて監督が自分の意に沿ったものにするのではなく、カットされた部分を追加するのだろうか?。 こんなことを書き始めたのは、個別の作品のレビュー等で良く書いているように、最近いたずらに長過ぎる作品があるような気が少なからずするからだ。この傾向は世界的でもあるけれど、特に日本映画には顕著な感じがする。仮に40のシーンからなる95分の映画があったとする。各シーンを10秒ずつのばすと全体で400秒(=約7分)増える。2分のシーンを5つ追加すると10分増える。結果95分だった映画は112分となる。一口に映画と言っても色々な表現様式のものがあるから一概には言えないが、この内容なら95分ぐらい、これなら105分ぐらい、これだと140分、といったプロポーションの必然性があるように思う。95分が適切なものを112分にしてしまっては、やはり密度が薄くなってしまうように思うのだ。それで一例として、キェシロフスキ監督の自伝(仏訳版)に掲載されている、同監督が『トリコロール 青の愛』の編集に関して製作者のマラン・カルミッツに送った手紙をご紹介したいと思う。  (マラン・カルミッツ Marin Karmitz) キェシロフスキという監督/編集者は、撮影後に第1、第2、第3バージョン・・・と編集をくり返し、最終バージョンを作るというスタイルの人だった。『青の愛』の初期第2編集バージョンを見た製作者カルミッツは、その感想を監督に(ファックスで)書き送った。カルミッツは映画を第1部「破壊」、第2部「再生」、第3部「人生、愛、創造」に分け、それぞれの部分に関して感想を述べた。それに対するキェシロフスキの返事、1992年12月2日(ワルシャワ)付の手紙を要約訳で以下にご紹介します。 新しい(第3)編集バージョンは、ジュリーという人物に関する貴殿の考察にも合致すると思います。これまでのバージョンでは彼女はやや雲の上の人物でした。 新しいバージョンでは彼女はより地に足がついています。でも十分に彼女の神秘性は残っています。彼女の現実的面と神秘的面のバランスはまだ修正します。彼女が診察のために病院に行くシーンと、その直後にあるべきアントワーヌとの会見を、著しく後にもっていきました。かなり明確なカットを入れ、現在全体は1時間55分です。たぶんまだ15分ほど長過ぎます。 貴殿が「破壊」と呼ばれた部分は7分ぐらい長過ぎます(オリヴィエとの一夜の後、郊外の家を去るまで)。 第2部はシーンの順番をまだ入れ換える必要があると思いますが、現在45分です(テレビでジュリーがニュースを見るまで)。 第3部は6分ないし7分長過ぎます。ここでは最後の部分が音楽の長さで決まっているために、シーンの適切な長さのバランスを構成するのがなかなか困難です。我々の映画はまだ編集が完成していない状態なので、まだリズムがありません。第7か、第8バージョンぐらいで良くなりそうです。そうすればしかるべきリズムを持つと思います。 このリズムの完成にはまだ1週間ほどかかるでしょうが、それが終われば音に移れます。 (・・・) アントワーヌとの会見と、その直前の病院での診療シーンの削除に関しては、まだ検討中です。(・・・)このシーンはジュリーが映画の中で唯一笑うシーンなので、残すべきだと思います。 オリヴィエに関しては、観客が気持ちも知っている人物に対してジュリーが呼び掛ける機会を与えたいと思います。このシーンを短くし過ぎると、彼女が誰に、何のために呼び掛けるのかが不明になってしまいます。オリヴィエがテレビを買うシーンの削除は貴殿と同意見です。その他の部分も短縮しました。 貴殿のファックスに関しては以上です。映写前に貴殿と十分討議するようジャック(編集者のJacques Witta)に頼みました。今回の第3バージョンに関する貴殿のご意見もお待ちしています。 キェシロフスキという人はもちろん編集権を与えてくれることを、そして撮影はしても使わないシーンがあっても良いことを要求したわけですが、これが彼流の映画作りだったわけです。脚本、つまり撮影以前の段階に作られるものでは、シーンの配列自体も明確には決まっていないということです。最終的にこの作品は100分(日本版は94分?)になるわけですが、引用した手紙にもあるように全体のバランスやリズムを大切にしているわけで、別のところで言っていますが、「これで映画になった」ということの重視です。もう大昔にテレビで何人かの映画監督が日本のある有名編集者について話していて、「あの人、まあ、あれあれってほど、容赦なく切るんだよね。でもそれで良くなるんだ。」って言っていました。映画というのは全体として1つの作品で、それを一続きに観客は観るわけだから、バランスやリズムは不可欠であって、未練がましく何でも残そうというのでは、タイトな作品にはならないということです。 監督別作品リストはここから アイウエオ順作品リストはここから 映画に関する雑文リストはここから

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