『セックスと哲学』モフセン・マフマルバフ監督(フランス2005)--- 加筆 ---
SEX & PHILOSOPHYMohsen Makhmalbaf101min(DISCASにてレンタル)昨日の日記で取り上げたマフマルバフ監督の『セックスと哲学』なんですが、ちょっと加筆します。昨日の日記は画像をたくさん掲載したので字数がもうあまりないので、また今日は別の映画のレビュー書いている気力がないので、ここ別ページに加筆です。なんで加筆かというと、書き忘れたというのもあるのだけれど、アップした後ちょこちょこネットのレビュー読んでたら、「四つ股かけた最低のオヤジ」なんて感想があり、書いておくべきだと感じたのです。(以下ネタバレを含みます。)物語は、他の女の存在は隠して4人の女とつきあっていた主人公ジョーンが、40才の誕生日を期に自己改革だと言って4人にそれぞれ他に3人の女がいたことを知らしめ、全部と別れるというものでした。昨日も書いたように出会った順というマリアム→ファルザナ→タフミネ→マロハトという女性たちはその順に子供から大人になっている。マリアムはキスさえも許さなかったというように肉体関係をも含んだ男女の愛をまだ知らない。別れを告げられてダンスもやめるわけだけれど、ダンスをしていたのも好きなジョーンがダンスの教師だからでしかないわけで、実に少女的だ。次のファルザナはいちばんこの別れを悲しんでいる感じで、ある意味いちばん普通に愛を信じている。次のタフミネは比べるともっと大人で、かなり割り切りがある。すぐに肉体関係を持ったであろうことは入浴のシーンに表現されている。新聞紙のタオルで彼女の体を映画の観客から隠すのはジョーンだから、ジョーンは彼女のヌードを当然のこととして見ている。牛乳風呂の白い牛乳が白い体液(←禁止ワード回避でこう表現)の象徴であることも簡単に見てとれる。前のファルザナとの2つの乾杯のシーンにもそういう比喩があるかも知れない。下へ下へと杯を合わせていく第一の乾杯は下半身へ下半身へと向かう象徴だろうし、第二のはありがちな乾杯方ではあるけれど、腕と腕を絡ませての乾杯は体のもつれ合いの象徴だろう。三人目のタフミネに話を戻すと、彼女のは割り切った愛だから、自分の他に恋人がいると知ると悲しむでもなくただ去っていく。そして四人目マロハトになると主人公ジョーンと同じように四つ股をかけて4人の男とつき合っていた。だから確かに四つ股は四つ股だけれど、互いに愛など信じられなくなった男女ジョーンとマロハトの関係なのだ。そしてあとの3人の女性というのは、必ずしもこの四人目マロハトと同時進行であるわけではない。つまり四つ股までかけるようになったジョーンが純情なマリアムとも同時につき合っていると捉えるべきではない。これは単なる映画のレトリックで、ジョーン自身マリアムのように純情だった頃にマリアムのような女とつき合い、次にファルザナと、次にタフミネと、それぞれその女の愛のあり方と同じように女性遍歴をしてきた。そして今は永遠の愛など信じられなくなったのだ。それを4つの継起する恋愛として別々に描くのではなく、同時に描いたに過ぎない。まず一人目とつき合い、別れて二人目と、また別れて三人目、そして今は四人目と互いに四つ股をかけているという彼の愛に対する考えの変化を、40の誕生日というある1日にすべて描くことで、現在至った彼のあり方をより明確に表現したのだ。映画的この語りの手法を見落とすべきではない。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから