認められるということ
今日は,自分の話。前の職場を離れ,もうすぐ4年です。「まだ4年しか経ってないんだ」というくらい濃厚で刺激の多い,感情が揺さ振られる期間でした。それまでは,「自分に向き合う」ということがいったい何なのかさえ分からず,感情を表現するということ,自分を癒すということ,親を乗り越えるということ,などなど・・・その全てが全く未知の世界でした。たくさん気付いて,凹んで,泣いて,笑って,感動して,恐怖に飲み込まれ。自分なりに,良くやったもんだ~と感心する自己変容っぷりに,何となく安心していたところ,1,000年に一度の震災とともに,私の心にも激震が襲ってきました。 自分の親を乗り越える。このテーマは,これまでも何回もトライし,講座でも中軸をなすトピックです。ことあるごとに,両親とも直接話したり,自分の感情を解放するワークを体験したり,もちろん,私も果敢に取り組み,ずいぶんクリアにしてきたのは間違いありません。しかし,まだありましたよ。それも大物が。やはり,それに気付くきっかけは,パートナーとの関係です。またしても,妻にバッサリ!これまでも,同じことで指摘を受けていたにもかかわらず,分かったふりをして避けていたことが,明らかになってきました。今までは,本当に分からなかった。いや,分かりたくなかった,認めたくなかったんですよね。自分が両親の人生を再演し,母親の代わりを自分のパートナーに振り替えていたということを。私の父は,公務員でとして定年まで勤め上げた真面目な人で,家族を大切にする,ムツゴロウさんのような人です。 だけど,空気が読めない。母は,専業主婦で,几帳面で,曲がったことを許さない。考え方に柔軟性はあるものの,ところどころにこだわりが見受けられます。そんな両親と姉ひとりの4人家族は,全員の血液型が違います。父B,母A,姉AB,私O。そのとおりに,それぞれがいい意味でいえば独立的,悪く言えば浅い関係。そんな中で育った私は,家族のまとめ役を請け負ってきたように思います。父は,自分の能力を過小評価し,「どうせ自分なんて・・・」という観念と持ちながら,家族を大切にすることだけに一生を捧げてきた,そんな感じです。その観念は,父が若いころ,自分の父親(私の祖父)との関係の中で創られたものであることは,最近知ったことです。母は,劣等感を持ちながらも,それを認めずに,「きちんとすること」「ちゃんとすること」で自分の価値を確立しようとしています。今でも自分の劣等感を認めようとしません。そして,父は,自分の劣等感を,母の言うことに従い,認められることで確立しようとし,母はそんな父を受け入れることで自分を形作ろうとしています。これが両親の深層心理で起きていることで,現実的には,母に指示されることをこなしながら,それに腹を立てる父と,父の中に自分の劣等感を写し,それを否定するために,父の存在を否定するという関係が成り立っています。そこに愛情があるとは感じられませんでした。これが私の目から見た両親の真実で,そのことが受け入れ難かったのです。母に認められなければ父の存在が成り立たない。自分の存在を母に認めさせることで,父の存在を明らかにさせたい。そして,そこに愛情が存在していることに気付いてほしい。これが小さい時に私が願った最大の願いでした。そして,今もなお,それを願っているわけです。そして,そのことを認めないようにすればするほど,その両親の関係性を自分のパートナーシップに無意識に反映させていたのです。無意識で,妻に認められることが自分の存在認知の核心部分に居座っていたわけです。ほんと,必死になってそれをやり続けてきた自分に気付き,ショックと同時に力が抜けて放心状態ですよ。もう,そんなことしなくていいんですよね。本当に親離れは奥が深い。それくらい,親を思う子供の愛情が奥深いということですね。必死に頑張っていた子供の自分に,「もう,そんなにがんばらなくたっていいよ。」と声をかけると,自然と涙が溢れてきます。またひとつ,自分に近づいた気がします。そして,愛情深い自分が今まで以上に愛おしく思います。自分癒しの旅は,まだまだ続くようですね。