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2011年07月10日
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天地万物の実体はなんでしょうか

「新約聖書マタイによる福音書13章35節に、『わたしは口を開いて譬を語り、世の初めから隠されていることを語り出そう』と神が言っているのです。これは、詩篇の言葉をマタイが印照しているのですが、譬(たとえ)ということが、分からないのです。
 譬とはどういうことなのか。これを仏典的に言いますと、曼荼羅(まんだら)です。真言宗の場合、弘法大師が曼荼羅をしきりに言いますが、曼荼羅の本体が何であるかが、説明できないのです。天地万物が曼荼羅であるとします。天地万物の本体は何なのか。本体を現すために、曼荼羅があるのです。その本体は何かと質問しても、弘法大師は答えてくれません。曼荼羅のことを、色々と説明するのです。しかし、大乗仏教はその本体を説明できないのです。
 なぜかと言いますと、大乗仏教に神がないからです。造り主がないのです。仏教哲学で言いますと、無始無終といいます。初めも終わりもないというのです。地球は、初めがなく、終わりもないと言います。それは嘘です。そんなことは、科学でも説明ができるのです。地球には、初めがあったのです。だから、終わりもあるのです。
 仏教には、神という概念がないために、地球の初めの説明ができないのです。人間の初めの説明ができないのです。肉体的に人間が生きていることが、譬です。
 みずからというのは、おのずからの譬なのです。人間がこの世に生きていることが、曼荼羅なのです。天地万物が曼荼羅であるように、人間もその中に入るのです。弘法大師自身が、自分がどこからきたのか分からない。分からないから、曼荼羅の原理、原質が何であるか、分からないのです。
 人間の学問、宗教は、皆そうなのです。例えば科学という概念があります。科学が時間が存在することを、仮定しているのです。時間が存在することを仮定しなければ、物理運動が説明できないのです。例えば、プロトンの回りを、エレクトロンが一秒間に、一億四千五百万回まわるといいます。もし、一秒という時間がなかったらどうなるか。理論物理の説明がつかなくなるのです。
 そこで、科学は、時間や空間が存在することを前提にしているのです。これが、専門学の誤りなのです。専門学は、曼荼羅を鵜呑みにしているのです。
 時間があることを、科学で説明することはできません。時間、空間の本質は、人間の頭では説明ができないのです。これを譬というのです。
 時間や空間は、あることは分かるけれど、譬であって、時間の本質は、どこに、どうしてあるのか。どこからくるのか。時の流れとは何なのか。どこへ行くのか。この説明は、科学ではできません。哲学でもできません。
 欧米人の世界観は、時間、空間の説明ができない世界観です。
 般若心経の世界観は、時間、空間の説明ができます。どのようにできるかといいますと、色即是空、空即是色です。色は空であることは分かります。しかし、空が色であることが、どうも分からない。もし、色が本当に空であるなら、なぜ空が色になって現れているのか。なぜ地球が存在するのかということです。この質問は、仏教では答えられません。仏教では、そういう質問は、してはならないことになっているのです。
 そこで、私たちは好むと好まざるとにかかわらず、旧約聖書の創世記を勉強しなければ、地球が存在する原因が説明できないのです。
 ところが、日本人は、聖書を敬遠しているのです。嫌っているのです。
 キリスト教は、欧米の宗教であって、聖書の勉強はしていますが、キリスト教的に勉強しているだけなのです。キリスト教的に勉強をしますと、全部、西洋の宗教になってしまいます。本当の神が分からないままの状態で、西欧社会はできているのです。
 だから、キリストを信じる、神を信じるというけれども、それは、概念なのです。
 アメリカや、ヨーロッパには、神の本物がないのです。キリストの本物がないのです。これが、西欧社会です。そこで、専門学をつくって、ごまかしているのです。
 人間の命をごまかして、生活の方へひっぱっていくのです。生命の方向へひっぱっていかないで、生活の方へ人間をひっぱっていくのです。これが、教育の荒廃の原因です。
 何のために、教育があるのか。何のために、人間が存在するのか。これがはっきり分からない状態で、学校教育というテクニックだけを考える。だから、間違ってしまうのです。命の本質が分かっていないことが、現代文明の最大の欠陥です。
 現在の文明は、欠陥文明です。ユダヤ主義に基づく欠陥文明であって、神という言葉はあるが、実体はないのです。
 空がなぜ色になったのか。空は色にならざるをえないのです。
 無という言葉が般若心経にあります。無という思想は、物を生み出す力です。有とは、ものを滅ぼす力です。物理的にものを考えるというのは、有の方になるのです。西欧社会の考え方は、有です。日本社会の考え方は、無になるのです。無の問題、有の問題を考えていけば、なぜ地球が発生したのかという原因が、分かってきます。日本が始まってから、今まで、地球がなぜできたかを、明確に説明した人は、一人もいません。
 専門学には、大きな欠陥があります。その欠陥をカバーするためには、色即是空、空即是色の原理の説明が、できなければいけないのです。なぜ空が色になったのか。なぜ色である地球が存在しているのか。人間は、なぜ地球に生きているのかという根本問題ですが、これを勉強しなければならないのです
 命の本質さえ分かれば、死ぬことがなくなるのです。現に、人間の目は、花のうつくしさを見ているのです
 花の美しさを見ているということは、おのずからの命の本質が、分かるということです。目の力は、おのずからの命をみているのです
 これを、自分の気持ちに割り込まして、人生観の中へ割り込ましていくことになりますと、生まれる前の命を、はっきりつかまえることができるのです
 生まれる前の命は、生まれていないのですから、死ぬはずがないのです。赤ちゃんが生まれたときに持っていた命は、物心がつく前の命です。物心がつく前の命が分かれば、死なない命をつかまえることができます。教育の荒廃も解決されるのです
 教育とは何かということです。何のために生きているのか。人間とは一体何であるのか。これが分かれば、現在の日本は、がらっと変わるでしょう。全世界の文明が、ひっくりかえってしまうのです。
 その時、イエス・キリストの復活と言う問題が、歴史的事実になって、現れてきます。
 現在の地球の万物は、譬です。本当に存在しているのではありません。ある一定期間、地球あるような状態にあるだけです。人間の肉体も同じことです。
 肉体は、いつも新陳代謝している。喉が渇いたり、おなかがすいたりする。肉体そのものが、生態なのです。肉体は生きているのです。生きていることは、流動的に存在しているということです。
 地球は造られたものです。造られたものは、やがて、なくなってしまうものです。こういう聖書の原点を抑えていきますと、生命の原理、地球が存在することの根本原理を捉まえることができるのです。



東洋文明と西洋文明は、一つになれるのでしょうか

日本の仏教は、日蓮宗、浄土真宗、浄土宗等、色々あります。宗祖、教祖の信仰が、そのまま教えになっています。これが仏教です。日蓮、弘法大師、親鸞、法然は、仏教の開祖です。これは仏法ではないのです。
 日本には、釈尊の悟りは一つもありません。だから、日本の仏教は、釈尊の本当の悟りではないのです。
 釈尊の悟りは、仏法であって、宗教ではありません。人間の本質的な悟りを説いているのです。 般若心経以外のお経は、一番初めに、如是我聞と書いているのです。法華経でも、般若経でも、維摩経でも、如是我聞と書いていない経文は一つもありません。般若心経だけが、如是我聞と書いてないのです。
 般若心経は初めから、観自在菩薩と書いているのです。自分が聞いたとか、自分が感じたとかということを、全然言っていないのです。観自在菩薩がそのまま姿を現しているのです。だから、般若心経は宗教ではないのです。
 般若心経を、正確に、仏教としてではなくて、仏法として扱えば、初めて、釈尊の悟りが分かるのです。それは釈尊が、明けの明星を見たからです。明けの明星を見たことは、人間文明の新しい朝ぼらけを見たことなのです。これは、大変なことです。
 明けの明星は、太陽が出る前に必ずでます。明けの明星が出た後に、太陽が出るのです。その明けの明星を、釈尊が見たのです。だから、今の人間の文明、社会は、空だということが、分かったのです。その思想が、そのまま般若心経に現れているのです。
 般若心経には、人間のすべての行き詰まり、悩みは、一切消えてしまうと、はっきり書いています。これは仏法であって、仏教ではありません。だから、般若心経を、寺が仏教のお経として扱うのが、間違っているのです。
 般若心経は、釈尊の悟りを、そのままずばりと、説いています。五蘊皆空、究竟涅槃と言っています。たいしたものです。文明も、政治も、経済も、からっぽだと言っているのです。現代文明は、ただ幻覚を飾り立てているのです。大学教育は、その代表といっていもいいでしょう。
 仏法は釈尊の悟りであって、現在の地球があること、人間が生きていることは、両方共、皆空だと言っているのです。新しい世界、新しい命、新しい人間が、必ずくると、断定しているのです。これはすばらしい思想です。
 それを裏付けるのが、新約聖書です。ヨハネの黙示録22章16節で、イエス自身が、わたしは輝く明けの明星であると言っているのです。
 釈尊は、復活のイエス・キリストを見たのです。だから、東洋思想の根底になっている仏法の思想と、西洋文明の根底になっている新約聖書の思想は一つなのです。空という意味で、一つなのです。
 空を信じることが、本当に神やキリストを信じることになるのです。空が分からなければ、キリストは分かりません。
 普通のキリスト教では、キリストは絶対に分かりません。般若心経の空が分かると、初めて、イエスの偉大さがわかるのです。イエスがキリストであることが、人間が新しくつくられたことなのです。これは、やがて、地球が新しくなるという予告なのです。キリストというのは、そういう重大な預言的光を持っているのです。
 般若心経と聖書を、一つにまとめて説明できないものは、本当の仏法も、本当の聖書も、両方共説明できないのです。
 般若心経によって、初めて、新約聖書の本当の意味が分かります。又、新約聖書によって、初めて、釈尊の悟りの意味が分かるのです。
 このように、東西文明は一つのものなのです。






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Last updated  2011年07月10日 17時04分08秒
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