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信仰者は夢を見る:川上直哉のブログ

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「トルコ虐殺事件」

おそらく文字にあらわされたフォーサイスの説教の中で、
一番最初のものの、翻訳です。
詳しい解説は、「解説」に掲載します。
文中の下線は、「解説」の為につけました。
ちょっと見づらいかもしれません。申し訳ありません。

簡単なコメントは、
「「トルコ虐殺事件」翻訳をアップしました」で、どうぞ。


____________________

トルコ虐殺事件:フォーサイス師による説教
"The Turkish Atrocities: Sermon by the Rev. P. T. Forsyth,"
Shipley and Saltaire Times and Airedale Reporter, 23 Sep. 1876.
訳:川上直哉


 去る日曜日[1876年9月17日]の夕方、シプリー会衆派教会牧師・P・T・フォーサイス師が、東方[East]においてトルコ軍がキリスト教徒に対し行った蛮行に言及しつつ説教を行った。フォーサイス師はこの蛮行について、ほかならぬこの世界の一部で起こっている事件であること、そしてこの事件について英国に義務が生じていることを主張したのである。多くの会衆が集まり、師の説教を聴いていた。

 フォーサイス氏は自身のモットーとして、「ペテロの手紙第一」2章17節の言葉「兄弟を愛せよ」を採り上げた。aディズレイリ氏の言葉「大英帝国を維持することこそ、現下の危機的事態における我々の義務である。」を引用しつつ、フォーサイス氏は優れた導入の言葉を述べた。この利己主義的政策こそが、歴代の政府において長年に亘り継続されて来たのだということを、フォーサイス氏は指摘したのである。師は次のように述べていた。

 国家として見る時、我々の政策は実に利己的なものである――このように、我々は感じ始めています。もしそうなのだとしたら、「利己的な人々が我々の心に残してゆく印象程度のものしか主張できない国家に、我々は所属しているのだ」と、いうことになる。もし、我々の取るべき外交政策が貪欲なものでしかないとしたらどうでしょうか。そんなことになれば、我々は国際的な事案に対し、ほとんど何を言う立場も持っていないのだという気持ちに陥ります。それが、キリスト者の気質というものなのです。これでは、もはや、我々は世界に対して何の提案もすることができなくなる。自由の為に喘ぎつつ苦闘する世界に、もはや我々は何も関与することが出来ない。福音は、「汝自らを救え」という呼び声として、最初にこの世界に現れたのだったでしょうか。この危急の事態において、大英帝国の維持こそが我々の義務なのでしょうか。もしそうだとしたら、もはや我々は、英国のモットーが「神は正義を守り給う」である等とは言えなくなるでしょう。何より、もはや我々は世界における第一級のキリスト教国だなどと、決して言うことができなくなる。あるいは我々は、「主よ主よ」と叫んでいるかもしれない。この叫びがこだまする大聖堂やチャペルは、この国のいたるところにあります。しかし、現在の政府がしているような態度決定が我々の国家的方針であるならば、もはや、我々の国民的宗教の正体は、隠すべくもなく露見してしまうことでしょう。我々は、もはや、キリスト教の名において呼ばれるどのような名も、自分たちのものとして用いる権利を喪失してしまっているのです。私は、このことを、これ以上ないほどの真剣さを以って語りたい。この主張が含意する事柄を、どこまでも徹底して強調しておきたい。bキリスト教にとって、第一の、そして根本的な特徴は、自己放棄なのだ―― つまり、自己は、第一の事柄とはならない。自己は、第二義的な位置に留め置かれる。このことを充分理解できずにキリスト者であり続けることも、あるいはあるかもしれません。しかし、この「自己放棄」ということを認めない信仰を、キリストの名において告白することは、誰にもできないことなのです。我々の見解、関心、評判、あるいは意識ですら、全て第二義的なものに過ぎない。何か別のものが、第一義的なものである。ある危機的状況において、次のように語る大胆な司祭や牧師がいたらどうでしょうか――「私の唯一の義務は、私の教会・私のセクトの勢力を確かなものにすることなのだ。そのためには、私はどんな犠牲も払おう。事ここに至って、その他の事柄は全てどうでも良いのだ。」

 涼しい顔をした政治屋達[politicians]は、「人間というものは、頑迷なものだ」と言って憚りません。また、皮肉屋達は、警句の味わいをつけて、次のように言っています――「教会やセクトが、最も手際の良い仕方でその指導者達との繋がりを断ち切っている。これはこれで、教会とセクトにとって、よいことだ。」しかしながら、
cこの頑迷さが政治的な類のものとなる時――先ほどの頑迷なセリフは、リンカーンの主教[Christopher Wordsworth, 1807‐1885]ではなくてビーコンズフィールド卿[ディズレイリ]が語ったものなのです――事柄は深刻となる。自由を求めて産みの苦しみに喘ぐ抑圧された国民は、驚異的な特権にあぐらをかく英国が許容できる範囲内の収穫しか得られないのだと、ビーコンズフィールド卿は言ってしまったのです。頑迷さは、我々の政策の基本的原理として据付けられてしまいました。もはや、頑迷さは国家の深奥部へと取り込まれてしまった。実に、自らが人間の苦悩と人間の肉体を貪り食らっているのだということに気がついて心胆寒からしめられるまで、我々の国家は、頑迷さを自らの中から抜き出すことができないことでしょう。

 このことを、このように強烈な仕方で語ること、このことに、私はまったく憚りを感じません。あらゆる言葉に気を遣い、幾千もの人の関心におもねらなければならないのは、政治家です。私は政治家ではない。私は真理を言い表すこと以外には、何の責任も負っていないのです。正義を求める声を打建て、人間性を求めるキリスト教的熱狂を述べ伝えること――このことに貢献することだけが、私の目指すところなのです。あるいはそれは、私一人に限らず、全ての人がそうなのかもしれないのですが。

 あるいはもっと大胆に、こうも言えるでしょう。
d危機的状況に、立ち至った人々がいる。こうした人々を目の前に据えながら、「我々の唯一の義務は、自己を追求することであり、帝国を維持することなのだ」と主張する人は、悪魔であり、頽廃を齎す者―――百の首を持つ反キリストのヒドラの首の一つ――に他ならない。ああミルトンよ!ああクロムウェルよ! あなた方が永遠の大いなる純白の玉座の足下に立つ時、我々のこの不面目があなた方の所にまで及びませんように! もしあなた方のところに、この我々の不面目が届いてしまったなら、あなた方の天における休息は台無しになってしまうでしょうから!この惨めな国民を代表して、今晩、私はあなた方に訴えたい。この惨めな国民は、あなた方を苦しめている。あるいは、この惨めな国民は、間違いなく、早晩あなた方の苦しみとなることでしょう。この事はすぐに分かることです。少なくともeデイリー・ニューズによって詳細に報じられた記事の多くを、兎も角も読んで頂きたい。もしあなた方が最初の幾つかの記事を読んで、もうこれ以上読み進められないと言ったとしても、私は全く不思議に思わないことでしょう。私自身、自らに強いて全ての記事に目を通したのですから。f私は同情と怒りと涙なしにこれらの記事を読むことができませんでした。そして、一再ならず、抑制された呪いの言葉を、私は吐かずにいられなかったのです。この危機的事態は、そのような深刻な類のものなのです。

 どんな危機的事態も、純粋に悪そのものであるわけではありません。ある事柄を、この危機的事態が照らし出してくれました。つまり、
gこの危機的事態故に、私はこれまでになく、復讐を主題とした詩篇について理解できるようになったのです。現下の危機的事態は、ここに至って役に立ったということです。私は、この危機的事態について知ることによって、復讐を主題とする詩篇の言葉が流れ出てくるところの、ある種の感情の空気をつかむことができました。そして、復讐の詩篇の言葉が、今や私に向かって現実味を帯びて迫ってくることとなったのです。

 ある瞬間の同情が、瞬間的に悪事と結びついてしまう、そのような時があります。呪詛が、不信仰な人々の神を呼び出しているだけに終わる時もあります。そんな時、不信仰な人は、人間の力を超えた残虐な行為を神の罰だと称し、しかも、決してそれは自分の足元には及ばないと考えている。しかし、この記事に詳細に報道されている事件をお読み頂きたい。もしお読み頂けるならば――私自身もそうだったのです――皆さんの目には涙があふれ、心は恐怖で震え出すこととなるでしょう。そして、
h次のような恐ろしい問が頭をもたげてくることになります――「この地上に正義を行われる神は存在するのだろうか。我々は非情な権力によって翻弄されるだけの存在なのだろうか。我々はまるで見境のない冷徹な力を持った激烈な竜巻に曝される藁のような存在なのではないか。」この問は、頼りない祈り・よろめきつつ暗中模索する信仰の内に、皆さんを大いなる場所に連れて行きます。この恐ろしい問によって、雲に覆われた大いなる純白の玉座に繋がる階段の、最初の一段目に、皆さんは誘われるのです。

 私に言えることは、唯一つしかありません。
iキリストは、この恐るべき大惨事以上の事柄と向き合われたのだということ。そしてそれにも拘らず、キリストは信じ、忍耐されたのだ、ということ。これだけが、私に言えることです。キリストは、世界の全てを神の御手の内にあるものとして生き抜かれた。つまり、太陽神ヘリオスの炎の馬車に乗り込むようなことを、キリストは決してなさらなかったのです。

 私は皆さんにお願いしたい。恐ろしい問に悩まされている人々の助けとなって頂きたいのです。
j世界の砂埃にまみれてしまったせいで、皆さんの人間性は皆さんから切り離され、失われてしまいました。もし皆さんが心を閉ざし、救いの手を差し伸べないでいるならば、皆さんのお連れ合い・御愛娘・御子様たちは、皆さんがご家族のことを愛情豊かに考える時にでも、皆さんの利己主義を見咎めて皆さんを責めるでしょう。今何が起こっているかを知りつつも、何かしなくてはと迫るものを何も感じないとするなら、皆さんはもはや人間ではない。

 ほとんどの英国人が今感じていることを、鮮明に感じ取って、自らの感性が自分をミスリードするものでないかどうかを点検する、そのような人について、私は理解することができます。また、自分自身の内に燃え上がる憤りの激しさ・危うさを知り、それらが、怒りと同情によって齎されるはずの実際的で永続的な境地に至ることを阻害することがないかと気を遣う、そのような人について、私は理解することができます。悲惨な状況にある人に、自らの助けが祝福となって呪いとはならないということがハッキリするまでは、実際的な助けの手を差し伸べることを意図的に差し控える、そのような人について、私は理解することができます。しかし、私が理解できない類の人がいます。例えば、義憤を一切表明しない人、あるいは、あらゆる事柄を外交問題として処理する人、あるいは、残虐行為は困難な問題の中の付随的な難問に過ぎないと理解し、この問題についての国民的感情の表出を、事ここに至っても尚、迷惑で不合理な要素であると理解する人のことです。こうした人について、私は軽蔑の情以外の何も感じることができません。

 自分達の生命が彼の地の人々の生命よりも大切であると考える方が、ここにおられますか。自分達の間の名声への限りない愛故に、互いに愛し合っている方々が、ここにおられませんでしょうか。過剰に洗練されてしまった為に酸敗することも、あるいは、批判によって弱ってしまうこともないような、純粋で単純な人間的感性をひたすら保っている方は、ここにおられませんか。人間愛の神聖不可侵さを保持し、自由な国家と信頼のおける家庭のなかで自由を確保すること、このことのためにこそ、自分達の生命は役に立たつのだと感じている方が、ここにおられませんでしょうか。そのような方々に、是非とも私はお願いしたい。あなたの助けの手を差し伸べてください。今、あなたのお金を以って、助けの手を差し伸べて頂きたいのです。愛の故に、あるいは家庭の温かさ故に、あるいは自由の故に。これらは全て、皆さんがいつも享受しているものではありませんか。痛みと恥に苦しんでいる人々がいるのです。この人々の痛みは、皆さんがかつて感取したこともないほどものであり、あるいは、これからも決して味わうことのない、そのようなものです。

 しかし、皆さんは英国人ではありませんか。皆さんは、自らをキリスト教徒であると自称するキリスト者ではありませんか。皆さんは、ただひたすらに感傷的・感情的な行動を取ることを慎む大人ではありませんか。
k皆さんは、英国人です。つまり皆さんは、クロムウェルを愛し敬服している国民ではありませんか。ミルトンのスピリットを崇拝している国民ではありませんか。ウィルバーフォースを生み出し奴隷制を廃止した国民ではありませんか。世界の奴隷制をいつか全廃せんとする運動の為に、毎年、資金と人材と労力を捻出し続けている国民ではありませんか。多くの過ちを犯しつつも、自由の故郷として尊敬を集めている国民ではありませんか――皆さんは、そのような英国人なのです。もしこうした伝統を真に自らのものとするならば、それ相応しく行動してください。今なすべきことは、一目瞭然に明らかではありませんか。

 今正に生まれ出ようとしている国民があります。それは恐るべき圧制によって一旦は墓の下に埋葬されてしまった国民です。しかしその墓石を取り除けて、今正に生まれ出でようとしている国民がある。皆さんは、この新しい国民の友と、ならなければならない。皆さんは、黒人奴隷を扱うあの不正な商行為を知っています。しかし、それ以上に憎むべき商行為が行われているのです――彼の地においては、何処にも助けを見出せない状況のなかで、無理やりに、女性達が売り買いされているのです。このようなことを行っている国家を恐れさせる敵として、皆さんは振舞うべきではありませんか。
l西欧[West]の自由とキリスト教的文明を知りたいと渇望する東方の人々の側にこそ、皆さんは立つべきです。我々がこの400年間に押し進めてきた文明の歩みを拒もうとし、さらにはこの文明の進歩を阻害すべく残虐行為を野放しにする、そのような人種[race]があるならば、皆さんは、あらゆる力を傾注して、これと戦うべきです。たとえその人種がどれほど強力なものであっても、です。

 皆さんに何ができるでしょうか。
m英国人である皆さん。恐れずに、目を上げてください。恐れなど、足元に置いてしまってください。利己主義的な不安を脇に置いて、注目して欲しいのです。我々英国の立場を。欧州諸国のむき出しの武力は、思想や大志、理想や共感といったものが語る言葉に、もはや耳を傾けません。この数ヶ月来起こった恐ろしい出来事によって、恐怖の感情が掻き立てられました。しかし今はそこから離れてください。戦いの直中に身を置いて、しばし考えて頂きたい。英国人である皆さんは、果たしてどちらの側に共感を寄せるのですか。このことを良く考えて、ご自身の立場を表明し、そして、勇気とエールを、勇敢に奮闘する憐れな国民に送っていただきたいのです。これは静かなる抵抗運動に身を投ずることを意味します。しかし、哀れみに満ちたその目を欧州の地平線上に向け、こう考えて頂きたい。「あるいは、彼の地には助け手が一切なく、援助など何処からも来ないのではないか。」

 ああ、英国よ。
n自由という神の正義を求める彼の国の小さな大志は、汝の巨大なる自由へと目を注いでいるのではないか。いま起こっていることというのは、つまり、正に溺れかけて苦しんでいる人[wretch]が、そばを航行する軍艦の滑らかな甲板に目を上げると、そこに、溺れかけている自分をただ見ているだけの、たちの悪い恥知らず[wretch]がいるのを発見した、というような、そのような光景なのではないのか。もしそうであるならば、汝の大いなる自由は、汝にとって肥大し上品に飾られた利己主義とならざるを得ない。もしそうであるならば、汝は、自らが自由であると夢想する狂気のうちに生き、手足に付けられた鉄鎖を鳴らすばかりの、最も憐れな、最悪の奴隷に他ならない――汝はトルコの奴隷ではない。汝とトルコとは同等の関係にある。汝はトルコの主の僕ではないか。汝は気づかぬうちに、汝自身の奴隷となり果ててしまっている。

フォーサイス師は以上のように述べた後、更に問題の政治的な側面へと議論を進めた。師は次のように述べたのである。

  適切な外交努力と共感能力を用いて事態を注視することのほうが、トルコに再発防止を委託するよりも、現下生じている恐ろしい出来事に対し、より一層人間的に対応できます。実に、トルコに次いで、我々には現下生じている事柄に対して責任があるのです。トルコは我が国の政府に対して率直に事態を説明しません。oこの数年来、我が国はトルコに対してもっぱら利己主義的な政策ばかりを追求してきたのです。おそらく、我が国の大使は、もっとも強力に交渉をしなければならない正にこの時、最も弱い外交力しか持っていないのです。

フォーサイス氏は以上のように述べ、そして、以下のように更に議論を展開した。

 我々はここで、家族よりも高次のもの・国家よりも広義のものの名と向き合っています。我々はここで、あらゆる絆の中で最も広大なものの一部分と向き合っているのです。pつまり、ここで我々は、キリストの教会[Christ’s Church]の一部と向き合っているのです。我々は今ここで、我々に取り扱い可能な機構の中で、最も巨大で、最も普遍的なものの中にいます。我々は、単なる一個人に過ぎないのではない。我々は、単なる英国人に過ぎないのでもない。我々はキリスト者なのです。つまり、q我々は贖われた人類の一員なのです。甦られたキリストの霊の影響下、はるか遠い未来の兄弟達との完成された絆を理解するべく召し出された人類の一員――それこそが、我々なのですr国家における生活は、この完成された絆に向かうステップの一つに過ぎません。s国家を超えた高次の絆があります。それは人類という絆です。従って、愛国心を越えた高次の義務というものが、存在するのです。愛国者の前に、贖い主がお出でになる。社会の救い主は、人民の解放者よりも大いなる方である。ある国のあからさまな利害は、いつか人類全体の主張の前に道を譲らなければならない。――これが、世界の国々に対してキリスト教が発すべき使信として、今語られなければならないことなのです。
 
 
tキリスト教は中世の時代、欧州に衝撃を与えて生命を蘇生させました。今、キリスト教は、眼前に国家を見据えて、より高次の生命をそこに保たなければならない。つまり、u連邦化された諸国家[federalized nations]の生命、あるいは、集合的人間性[collective humanity]の生命、あるいは、普遍的兄弟愛[universal brotherhood]の生命を国家の中に保持するという責任を、現代のキリスト教は負っているのです。この方向を指し示す兆しが、数え切れないほど存在します。各国の中にある最良の精神が、この高次の絆を求めて奮闘しています。そして既に指摘したとおり、一つの国民として、我々はこれら諸国の活動を前に、恥じ入らなければならなくなり始めました。というのも、ある途方もない危機的出来事を前にした時、自己保全だけを我々は自らの目標に定めてしまったのですから。v東方問題は、我々にとって、祝福を伴う懲らしめとなることでしょう。彼の地の人々の恥と苦悩だけが、我々の感性を活性化し、我々が追求してきた政策の正体は何であったのかを、我々に剥き出しの形で顕示してくれます。従って、苦しみにある人々の恥と苦悩とを、我々は忘れることがないでしょう。彼の地の人々の犠牲は、単に自らの国家形成の為に資するものとなったばかりでなく、我々の為にも資するものとなりました。彼の地の人々は政治的自由を自らの国にもたらすことでしょう。そして、かの地の人々は私達に解放をもたらすことでしょう――単に時代遅れの政策からの解放ではなく、道義に外れた、非キリスト教的な、利己主義的理念からの解放を、私達にもたらすことでしょう。

以上のような内容を更に展開して述べた後、フォーサイス師は以下のようにして結論を述べた。

 我々は、我が国の政府と、トルコと、そしてトルコ人キリスト者に対し、我々自身の姿を熱心に示してゆかなければなりません。もし、現在の英国が示しているスピリットが今後も示され続けるとしたら、我々の偉大なる過去は忘れられてしまうでしょう。wしかし、第一歩目を踏み出す責任は、我々の側にあります。我が国の政府にあるわけではありません。家を失い、友を失った彼の地の人々を、我々は助けなければならない。彼の地の人々は、避難所と食物はもとより、家畜も資本も機械も在庫品も失ってしまったのです。彼の地の人々が冬を越せるよう、我々が助けなければなりません。トルコ人にそれをさせなければならない等と、決して言ってはなりません。いつか、最も適当な機会をとらえて、トルコ人には相応の責任を負ってもらいましょう。しかし、外交というものは当てにならないもの、いつも遅れて機能するものです。そして冬はもうすぐやってきます――速やかに、しかも確実に。

 ですから、皆さんのお金を寄付してください。それこそ、皆さんが熱心にこの問題と向き合っていることの、何よりの証拠となります。それは、身を寄せ合う憐れな人々に希望を与えることとなります。そして、我々は希望によって救われるのです。彼の地の人々は、今でも尚、強いのです。絶望のうちにありつつ、彼の地の人々は英国人の周りに結集して待機しています。彼の地の人々は、英国人を立ち上がらせなければならないのです。そのためになすべきことを、既に彼らは果しました。つまり、彼の地の人々は、語るべきことを全て語ったのです。1850年代、まさに英国人自身が、「我々は飢えている。我々は飢えている。」と言っていたことを、彼の地の人々は知っているのです。もし皆さんが彼の地の人々の直中にいるのだとしたら、皆さんはご自身のポケットの中身を全て彼の地の人々に差し上げてしまうことでしょう。皆さんの財布は、皆さんの心ほどには広くないでしょうから。

 
xさあ、想像力と共感の力を駆使して、彼の地の人々の直中に、皆さん自身の身を置いてみてください。戦い、苦しんでいる人々を見てください。死と自由のいずれかを選びつつ生きている人々以外、耐えることができない苦しみが、そこにあります。自らと子どもたちの為に食事を求めて泣き叫ぶ女性達の姿を見てください。あるいは、語りつくせない犠牲そのものであるところの恥に圧し拉がれる死よりも更に痛ましい生命の静寂を、見てください。動かなくなった自らの子供、首を失った兄弟や父祖達や子どもたち――そうしたことの記憶によって、繰り返し身震いし血の気を失う、そのような苦しみに耐えている人々を、見てください。こうした事柄を理解するように、努めてください。もしそうするなら、たとえ確信を持てずに先へと進み行かなければならないときにも、道徳的祝福と道徳的向上を、犠牲の中から刈り取る、そんな喜びを、皆さんは味わうことができます。そして、道徳的祝福と道徳的向上こそ、最も熱心に追い求めるべきものではないでしょうか。皆さんは、yこのような犠牲の山を越えてこそ、より一層キリストの傍へと昇り行くことができるのです。というのも、そうすることによって、zキリストがご自身の心を寄せられた場所に、皆さんも皆さんの心を留めること、このことを、皆さんは誓うこととなるからです。あるいは、そうすることによって、キリストがお持ちである哀れみと大義と衝突するあらゆる感性を放棄することとなるからです。aaエルサレムについて嘆き悲しんだキリストは、ブルガリアについてどのような思いに駆られているでしょうかbb近代欧州の国々を誕生させたキリストの霊は、キリストの大義を体現しようとして苦闘するあらゆる国々に臨まれないでしょうか。キリストは、現下の危機的事態という問題に対し、関心をお寄せにならないでしょうか。では、キリストのおとりになる立場とは、一体どちらでしょう?この問に対して、答えはどちらであるか、迷う余地があるでしょうか。今晩、皆さんの力をキリストの進まれる道へと注ぎ出してください。幾ばくかの犠牲を払ったとしても、皆さんには用意された褒賞があります。皆さんは必ず、この用意された褒賞に与ることでしょう。

この後、セルビア人のための募金が集められ、25ポンド10シリング3ペンスが寄付された。


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