470950 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

信仰者は夢を見る:川上直哉のブログ

信仰者は夢を見る:川上直哉のブログ

説教「大学のチャペル」

 チャペルは、何のためにあるのでしょうか。

 ここは、大学です。大学の中に、チャペルがある。それは、なぜでしょうか。

 今日は、その謎に向き合って、聖書の言葉に耳を傾けてみたいと思います。

 言葉というものは、不思議なものです。「言葉が今持っているイメージ喚起力」ががあり、そして、言葉の語源に由来する、「言葉がかつて持っていたイメージ喚起力」がある。その二つは、別々のものですが、二つを重ねると、新しいイメージが広がったりする。言葉は不思議なものです。

 「大学」という言葉は、Universityの翻訳語です。Universeという言葉、宇宙といったような普遍的な、気宇壮大なもののイメージが、ここに含み込まれています。しかし、もともと、Universityという言葉は、「一つになったもの」というラテン語に由来します。学ぶために「一つとなったもの」。学生と教師と職員とが、一体になって励む場所。それが大学です。

 では、何に向って、大学は「一体となる」のでしょうか。利益の追求のためであれば、それは「会社」となるでしょう。キリスト教の布教のためであれば、それは「教会」になる。大学は、何のために「一体」となるのか。おそらくそれは、「真理追求のため」だと、結論付けることができましょう。
 
 今日は、聖書を開き、一言だけ、読みました。「真理は汝らに自由を得さすべし」と、古い日本語訳で親しまれた、有名な一節です。「真理は汝らに自由を得さすべし」。

 真理は、自由を得させるものだ。ここに、真理とは何かを考える糸口があります。自由を得させるものが、真理である。では、自由とは何でしょうか。

 今年、授業を行っている中で、学生諸賢から質問をいただきました。「自由」という言葉の意味とは何でしょうか。英語ではFreedomとLibertyと、二つあるが、その違いは何でしょうか。とてもよい質問をいただいたのです。

 libertyという言葉は、大学という場所に場を持つ私たちにとって、とても関係深い言葉です。と言いますのも、libertyという言葉は、もともと書物をあらわすliberというラテンに由来します。このliberという言葉が、1000年余の時間を経てたどり着いた言葉、それがlibertyすなわち自由であり、そして、大切なこととして申し上げれなければならないのですが、liberという言葉が1000年余の時間をかけて枝別れしてたどり着いた言葉に、libraryすなわち図書館という言葉がある。つまり、書物に学び、理性と論理によって導き出される学問的事柄が、人々を迷信と偏見から「自由にする」。真理とは、論理的な学問のことである、といってよいでしょう。迷信と偏見から私たちを自由にするものが、真理である。これは、とてもわかりやすい事柄だと思います。大学で、私たちは書物liberに没頭し、論理を用いて迷信と偏見を打ち破り、自由を掴みとる。そのために、大学はある。大学は自由を得させる真理探究の場所である。そう言ってよいと思います。

 しかし、私たちはもう一つの「自由」という言葉の意味を考えなければなりません。すなわち、freedomという言葉です。freedomとは何か。それは、古い英語でfreoという言葉に由来します。そしてこの古い言葉は、やはり1000年ほどの時間をかけて、いくつもの枝別れをし、現代に至ります。Freedomはこのfreoという言葉のたどり着いた先。そして、同じくfreoという言葉がたどりついた先に、たとえば、friendという言葉もあります。

 不思議なことです。Freedomとfriendとが、同じ言葉に由来している。では、その、そもそもの素の言葉、freoとは一体何であるか。

 驚くことに、遥か昔の言葉freoとは、「愛する」という意味だったのです。

 愛するfreoということが、自由freedomになる。そして、自由を得させるものが、真理である。愛と自由と真理。この三つの事柄のつながりが、私たちにわかるでしょうか。少し、混乱してきます。

 しかし、落ち着いて考えれば、これは難しいことではない。私たちは、人に愛されるときにはじめて、人を愛することを知る。そして、愛する時はじめて、私たちは、論理や理性の枠組みすら乗り越えて、驚くべき事柄を行い得る。自らを犠牲にしてでも人を助け、思いやりを豊かに持って、あるいは痛みをこらえてでも、人を赦す。それは、愛によって促され、掻き立てられる行為です。それは、論理の枠組みをすら乗り越えるほどの自由な行為。愛は、人を自由にする。愛とはすなわち、人を自由にする真理である。

 最初の問いに戻りましょう。なぜ、私たちは大学でチャペルを持ち、この時間を大切にするのか。そのことには、大きな意味があります。大学は立派な図書館を持ち、迷信と偏見から私たちを自由にする学問あるいは科学を追求する場所として、存在します。しかし、それは「自由を与える真理」の片面である。それは極めて重要な事柄ですが、しかしそれだけでは、私たちは「自由」の片面しか手に入れられない。一方の「自由=liberty」を手に入れれば入れるほど、もう一方の「自由=freedom」の補充が必要になる。そうでなければ、科学や学問は、どこまでも非人間的な冷たいものとなってしまう。

 大学にチャペルがあることは、非常に意味があるのです。私たちは科学的に学問を行い、論理を用いて自由=libertyを得る。そしてそれと同時に、チャペルにおいて私たちは愛に触れるのです。チャペルとは、神様が私たちを愛しているということ、いやもっとはっきり言いましょう、神様は、まさにその身を切り刻んで人間に愛を示し続けているのだということを、語り伝える場所です。

 チャペルは、愛というものが私たちに与えられていることを伝える。チャペルは、私たちに「愛」という事柄を思い出させる。チャペルは、私たちに自由=freedomを与える場所となる。

 「真理は汝らに自由を得さすべし。」大学の中に置かれたこのチャペルが、皆さまに自由を与える場所となることを願って、祈ります。祈りとは、心を静め、祈りの言葉に耳を傾ける姿勢のことです。ひととき、心を静めて祈りの言葉に耳を傾けてください。


© Rakuten Group, Inc.