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信仰者は夢を見る:川上直哉のブログ

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説教「愛の力」

「愛」の力(大学チャペル説教)

ヨハネによる福音書14章9節
「イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。」

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「私が分っていないのか」
イエスの、痛切な、叫びの言葉を、今、ご一緒にお読みしました。
「こんなに長い間一緒にいるのに!」

イエスの、この苛立ち。
それは、この言葉の背景を知ると、とても切迫して感じられます。

イエスは、新しい世界の到来を宣言しました。理不尽が吹きだまり、世間の歪みのしわ寄せを一身に受ける場所、不条理の現場が、喜びと和らぎの場所に変わる、そのような、新しい世界の到来。それを、イエスは宣言しました。しかし、それは、古い世界の終焉の宣言でもありました。今の、歪んだ、古い世界の、終焉です。そして、イエスは、古い世界を代表するさまざまな力の集合体に、命を狙われることになります。

イエスの弟子に、ユダという人がいました。この人は、古い世界の誘惑に負けます。イエスを裏切り、古い世界をつかさどる権力者に、イエスを売り渡す。

イエスは、このユダに向かって、ある晩、こう言いうのです。「さあ、あなたがしようとすることを、今、しなさい。」イエスは、自分を裏切ろうとする弟子を見つめて、そっと、その背中を押すのです。さあ、しようと思っていることをしなさい、と。

そして、ユダが出て行く。その後ろ姿を見送った後、イエスが語り始めます。これから遂に、自分は殺される。これが、最後の会話だ。一言一言に、遺言の重みを込めて、イエスは語り始めます。

イエスは、これまでずっと語り続けたことを、弟子たちに語ります。天の神様は、まるでお父さんのように、近しい存在なのだということ。イエスの生涯において、神様への道は、既にはっきりと、開かれたのだ、ということ。そんなことを、噛んで含めるように語り始めます。

しかし、弟子たちはこう言うのです。先生、なんのことか、判りません。神様はどこにいるのですか。どうやって、神様に会えるのですか?

そして、今日のイエスの、悲痛な言葉です。こんなに一緒にいたのに、この最後の時に至って尚、何もわかっていないのか。わたしが誰なのかすら、全くわからないのか・・・。

「私が誰だか、誰にもわかってもらえない」という寂しさ。それは、実は、今私たちが見ている「ヨハネ福音書」全体のモチーフなのです。イエスは、自分が誰であるか、自分の生きざまが何を指し示しているのか、懸命に語って聞かせます。時には奇跡すら起こして。でも、理解されません。そして、これが遺言だと心して語るその時、最も近しい弟子たちすら、何も理解していないという現実に、イエスはぶつかる。その、切なさ。その、さみしさ。ヨハネ福音書のペーソスは、ここに極まります。

私たちは、毎日、チャペルでイエスのことを聞きます。私たちの手元には、いつでも、聖書がある。しかし、私たちは、イエスの生きざまが示した事柄とは何であるか、分かっていないのかもしれない。そんな気がしてきます。

ヨハネによる福音書の14章からは、イエスの遺言のようなことばが続きます。そこで、イエスは繰り返し、語るのです。自分の生きざまは、神さまとは何であるかを、はっきりと、語るものだ。そこから学べ、そこから知れ、そこにとどまれ、と。その結晶のようなことばが、頁をめくった先にあります。15章9節以下。「父が(つまり神さまが)私(つまりイエス)を愛されたように、私もあなた方(つまり弟子たち)を愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父(つまり神さま)の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなた方も、私の掟を守るなら、私の愛にとどまっていることになる。」そして、締めくくりのようにして、こう続けます。「これらのことを話したのは、私の喜びがあなた方のうちにあり、あなた方の喜びが満たされるためである。わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」

古い世界の終わりを告げたイエスは、そのことによって、自らの命が脅かされることを察知しています。そして、むしろ、そのことを引きうけようとしている。ユダの背中を押し、迫りくる運命を進んで引きうけようとしている。それは、古い世界の歪みの中で理不尽に苦しむ多くの人々の為に、自らの命を投げ出そうとした愛の発露だった。聖書はそう語ります。

そして、聖書は言うのです。イエスの愛は、神の愛であった。もし私たちが互いに愛し合い、イエスのように友のために命を捨てるならば、私たちもイエスと同じように、神の愛のうちに生きることになる。私たちは、愛し合うべきだ。これが、イエスの掟だ。これが、神の掟だ。聖書はそう語っているのです。

虚心に、まわりを見てみましょう。私たちの友が、苦しんでいないでしょうか。静かに、その友の苦しみに、私たちの心の波長を合わせましょう。その時、私たちは、驚くべき力を、自分の中に発見します。その友のために命を捨てようとする力。イエスの力。神の力。愛の力。それは、私たちの中にあります。友の苦しみの現場に触れる時、私たちは、私たちのうちに、知らない力を見出します。その時、私たちは知るのです。イエスとは何者であったか。神とは、何なのか。

愛の力は、死をも、乗り越えるほど、強いのかもしれません。
そして、そのチカラは、私たち全ての中に、既に、今ここに、あるのです。
静かに、友を思いましょう。そして私たちの中にある愛、イエスの力、神さまの力を、見つけましょう。毎日のチャペルが、このイエスの愛の力との出会いの場となることを願って、お祈りをします。


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